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June 03, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:メインルート探索編①

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 5月も中旬になると残業量も比較的落ち着き、帰宅途中に本屋に立ち寄る余裕も出てきた。そんなある日、ちょうど店頭に並んだばかりの『仙台市史特別編9地域誌』が目に留まり、少し内容を確認して即決で買って帰った。旧域仙台市の周辺地区であり近代において合併した地区である根白石、七北田、岩切、高砂、大沢、広瀬、原町、七郷、秋保、生出、西多賀、長町、中田、六郷の各地区についてまとめられている。税抜5714円也。

 私は仙台市出身(昭和51年当時)だが、出身地は『仙台市史特別編9地域誌』でまとめている地域としては七北田(旧七北田村)の範囲であり、その中でも荒巻に位置する。東に隣接する仙台市街地は勿論、西に隣接する広瀬、大沢、生出、秋保などの地域も子どもの頃より馴れ親しんだ地域である。これらの地域については過去も現在も未来についても興味を抱き易い、謂わば郷愁を抱く地域として今の私の心に存在している。

 さて、そんな私に『仙台市史特別編9地域誌』は、あらためて地元をよく知れと言わんばかりに次のような記事を掲載していたのであった。

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 『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』より地図を引用させていただいた。当該記事によれば『「諏訪神社筒粥記」の安永4年(1775年)12月条には、「四ツ谷海道」が崩れたため、放山の手前から回り道をして仙台城下に入るという記事がある』そうで、その迂回路とは上地図の緑ラインではなかろうかと提議している。上地図は昭和11年(1936年)発行の『仙台市全図』の一部であるという。

 「諏訪神社筒粥記」の諏訪神社とは青葉区上愛子字宮下にある神社で、鎌倉時代に信州の諏訪神社から分祀したという伝承が残る。「諏訪神社筒粥記」はこの神社が所蔵する貴重な歴史資料で、安永3年(1774年)から明治18年(1885年)までの祭事の記録のほか、作況や災害などの出来事についても記録されているという。

 「四ツ谷海道(街道)」とは「関山街道」のことで、仙台領内においては「作並街道」や「最上街道」、「愛子道」などとも呼ばれ、明治期には「羽前街道」と呼ばれた現在の国道48号線である。

 放山地区は広瀬川の流域にあり、愛子盆地を東流した川が仙台平野に流れ出る手前の地域、青葉山丘陵と権現森丘陵(広義には七北田丘陵)に挟まれ川が蛇行する地域の権現森丘陵側(川の左岸・北岸側)を言い、有数の地すべり地帯となっている。川の対岸(右岸・南岸)に位置する「青葉山地すべり」とともに、頻繁に地すべりが起きて向かい合うそれぞれの山が離れて行くように見えることから「放山(はなれやま)」と言われる地域となったという。地すべりが起き易いのは、軟質の凝灰岩層(綱木層)の上に重い安山岩層(三滝層)があることに因る地質の不安定さに起因しているようである。

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 GoogleMapより同地域を見る。「Google」の文字が中央下にあるが、ちょうどその場所が「青葉山地すべり」と言われている部分で、その川の対岸一帯が所謂「放山地すべり」と言われている一帯である。30年近く前までは、現在の「文理ランドスケープ園芸専門学校(休校中の模様)」の場所には沼があり、一時期は釣堀として営業されていた。私が子どもの頃には釣堀は廃業しており、沼は私の遊び場になっていた。そんな沼へと歩いて行くのであれば「緑ライン」を抜けていたのが私であった。また、付近一帯の山々も遊び場であった。

 今回、幼少期のその懐かしい思いとは別に、『仙台市史特別編9地域誌』の記事と昭和11年『仙台市全図』に記された道筋に誘われるかのように、久し振りに現地を歩いてみることにした。幼少期の頃の記憶を辿る部分もあるが、今の現地の様子を知っておきたい気持ちもある。そして例の記事や地図に多少の疑問も残るので、私なりの検証・見解というブログ記事にもなるであろう。

 まず、昭和11年『仙台市全図』に記された道筋や地形について考える。現在の地図でもそうであるが、綿密である住宅地図や測量結果に基づく公図でもない限り、主要道以外の道筋、特に車道ではないような道は多少曖昧になっていたり簡略化されていたりすることを念頭に置く。地形についてもそうであり、細部にまで厳密さを求めることは出来ないと考える。昭和11年『仙台市全図』は、あくまでも道筋の概容であり道の起点と終点程度が重要であろうと位置付けた。

 それでは何を以てして現実味を持った道筋を定めるのか、という点で以下の画像を利用した。

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 画像にも出典を記しているが、国土地理院の『地図・空中写真閲覧サービス』より航空写真を得て、GoogleMap等も閲覧しながら、まずは机上での検証を進めることにした。上画像は平成20年(2008年)当時の放山付近である。

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 さらに拡大した上画像。この範囲に昭和11年当時の道筋を見つけるのは難しい。個人的には付近一帯を歩いたことがある経験から見当が付く部分もあるが、より検証を進めるとすれば、当時に近い過去の航空写真を見てみることになる。

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 放山付近が撮影された最も古い航空写真として国土地理院のサービス内に存在したものが上画像。昭和22年(1947年)に米軍が撮影したものだ。

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 拡大してみると、山中には多くの崩落地の様子と幾筋もの道と思しきラインが見える。当地の主要道としては国道48号線(四ツ谷街道)で、大正後期よりバスが走っていた道である。この頃には当地の山中の人道も地域住民に利用される程度になっていたであろう。

 昭和11年『仙台市全図』より11年後の撮影である上画像に、『~全図』に見える道筋と、それに関係しそうな道筋、現在の地名などを落とし込んでみた。

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 桃色が『四ツ谷街道』(国道48号線)、黄緑実線が『仙台市史特別編9地域誌』で示された『迂回路』、黄緑破線が「迂回路高巻きルート?」、深緑が「接続支線ルート?」、黄色が「大迂回郷六ルート?」、橙色が「葛岡ルート?」、水色が「山屋敷ルート?」という具合に考えてみた。落とし込んだ道筋の一部には判然としない部分もあるため地形からの想定や幼少期の歩んだ記憶なども盛り込んでいる。

 この時点で昭和11年『仙台市全図』の道筋と比べ違和感を覚えるのが黄色「大迂回郷六ルート」の位置であった。『~全図』ではもう少し山の低い位置を道筋が走っているように見えるのだが、黄色線部分以外に街道側には道筋が見られず、またこの黄色ルートは画像では左端が切れて見えないが『~全図』同様広瀬村との村境付近で街道に合流している道となっている。この違和感については『~全図』側に曖昧な部分があったのだろうと考えることとした。

 次に、この想定ルートを現在の航空写真に落とし込んでみた。

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 上画像のようになった。米軍撮影の画像時と比べて少し道筋が歪んでいるのでは?と感じられるかもしれないが、米軍写真の場合は放山地区が広範囲を写した写真の下端やや右寄りに位置しているのに対し、上画像2008年写真の場合は放山地区の直上から写してあり、写真的な歪みの差などを私なりに補正して落とし込んでみた結果に起因する差異である。

 なお、新たに加えた灰色の線であるが、上から右下に延びる細い破線は送電線管理路、中央下の逆L字状破線は地すべり防止工事の際の作業道である。

 さて、いろいろ細かいことで気になる事はあるのだが、それはそれぞれの道を踏査する記事の過程で触れるとして、まずは歩き出そう、と。

 以下、5月中に都合4回の踏査を経て記録した画像とともに(私なりの想定ルートではあるが)各ルートの現状を記事にしていきたい。画像の撮影日時は掲載順とは前後しているがご了承いただきたい。

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 最初に今回の主役でもある『迂回路』を東側(仙台城下側)より行く。上画像は山上清水地区(八幡5丁目)の丘陵地からの眺め。眼下に四ツ谷街道(国道48号線)が西走し、川の蛇行に沿うように街道が曲がりくねっている。なお、大まかな位置ながら『迂回路』を緑ラインで描いているが、今後も道筋が紛らわしい場合などは随時画像にラインを入れて説明する。

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 大崎八幡宮前より四ツ谷街道を西に1kmほど進むと八幡6丁目のバス停がある。進行方向の正面に山が迫るが、画像で言う山の稜線に立つ2本の送電鉄塔の右側の稜線が凹んで見える場所付近(赤矢印)が、『迂回路』での峠であり他のルートと多く分岐している主要地点の位置である。

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 更に街道を西進すると「聖沢橋」がある。

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 旧道にはまだ現役の旧聖沢橋があるが、この旧橋が架けられる以前は橋の手前を右側に入ったところ、現在の砂防ダム付近に橋が架橋されていたようである。その様子は『仙台市史特別編9地域誌』で示された昭和11年『仙台市全図』もお分かりいただけると思う。

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 旧聖沢橋の上流側を併走しているのは四ツ谷用水(四ツ谷堰)。「四ツ谷街道」の呼名の由来となったであろう存在だ。四ツ谷用水は仙台城下への生活用水などの供給を目的に伊達政宗が計画した用水路で、青葉区郷六付近の広瀬川から取水し、3箇所の隧道と4箇所の「掛樋(かけひ)」による沢渡りを経て仙台城下北部を本流は東流し、青葉区宮町を横切り梅田川へと合流していた。昭和初期まで生活用水にも使われたこの流れは現在工業用水として転用されているが、4箇所の「掛樋」で唯一その姿を残しているのが「聖沢掛樋」。その「掛樋」も今ではコンクリート製だが、当然昔は「木樋(もくひ)」であり、松板が利用されていたそうだ。

 子どもの頃は、このコンクリ橋の上で遊んだりもしたが、怒られもした。欄干も無いし、転落したら命も落とす。良い子は真似しないでいただきたい。

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 昭和11年『仙台市全図』にある旧々道が存在しないため、便宜上旧道からの『迂回路』分岐点が上画像。旧聖沢橋を渡ってすぐ右に行く道筋となる。

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 ここからが『迂回路』だ。四ツ谷用水の「聖沢掛樋」を説明する立て看板と、文字が薄れた縦長の看板がある。縦長看板は「旅館望洋館」のものであり、地元では所謂「三滝温泉」のことである。詳しくは分からないが平成になって廃業したようである。左上の人影?は日蓮上人立像だ。

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 『迂回路』に少し入ると左に「日蓮宗本国寺」の参道があり、右側に2本の道路が奥へと延びている。2本のうち急な上りの左側が『迂回路』で、緩い上りの右側が旧三滝温泉へと続く道だ。

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 『迂回路』は本国寺の裏手を上る。この道筋が無かった頃には本国寺境内を『迂回路』は通っていたのかもしれない。割と急坂である。

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 坂を上り切ろうかという手前で『迂回路』は住宅地内へと入ってしまう。昭和22年(1947年)の米軍航空写真時代には直進する道が無かったのである。そして正面に『迂回路』の峠付近が見えてくる。

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 坂を上り切り少し進むと進行方向右手より上り坂が合流してくるが、その途中の住宅地内より『迂回路』が戻ってくる形となる。画像奥には旧三滝温泉の建物群が垣間見れる。

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 進行方向を見ると、いよいよアスファルト道路に別れを告げる場所となる。

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 車も通れそうな右の道は旧三滝温泉の敷地へと続いており、車両進入を封じるバリケードが設置されている。現在の『迂回路』はその山側を沿うように存在している。

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 山へ分け入る『迂回路』へ踏み出す。右側の温泉敷地道よりも高い位置を進むこととなる。

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 『迂回路』には人の歩いた痕跡が色濃い。付近の山々を山菜採りやキノコ採り、散策などで歩く地域住民は割と多い。

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 少しずつ右側の温泉敷地道との高度差が出てきて、足元に注意しながら進まなければならないのだが…。

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 最初の難所、崩落地の縁を歩くこととなる。ここの崩落ゾーンは30年前には既に存在し、崩落も少し進行している。

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 崩落部分から下を見る。温泉敷地道に第2のバリケードが設けられ、それ以上の立入を禁ずる看板もある。この付近一帯は仙台城築城の際の石材を調達した石切り場でもあり、また仙台地方での年代地層地質「三滝安山岩」の模式地となっている。この崩落部は三滝安山岩の様子が見事に露出し且つ容易に接近・観察可能な場所であるため、見学者も多く訪れている場所のようである。(このためか、温泉敷地道の人の進入を封じる第2バリケードも崩落地直後に設置と配慮されているようであり、踏査時にはバリケード手前付近の木々の枝払い等管理する人の姿も見受けられた。訪れる人へのさり気ない配慮が施されていると感じる。)

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 温泉敷地道側から崩落部付近を望む。

 「三滝安山岩」は当地付近から西部の権現森付近までの限られた一帯で確認でき、安山岩溶岩、火山角礫岩、凝灰角礫岩から成る新生代新第三紀鮮新世の地層である。権現森付近での太古の火山活動によってもたらされた地質と考えられており、この層より得られた安山岩質玄武岩が「三滝石」として仙台城築城に用いられたようだ。

 なお、仙台から見える山並のランドマーク的存在である太白山も三滝安山岩から成っており、形成時代もほぼ同じと見られている。権現森と太白山は蕃山を隔てて近接しているが、これらの地域での火山活動が活発だった時代へ思いを馳せるのも面白い。

 そう言えば、当地は明治時代にグメリン沸石なる稀な鉱石が産出したことで国内唯一の産地として名を馳せたそうだ。ただ戦後にそれは菱沸石と判り鉱石産地としての名は廃れたようである。しかしながら、まだ某大学の鉱石標本にはグメリン沸石として三滝産標本が保管されているようであるので、戦後さらに再調査が行われグメリン沸石が産したのかもしれない。(グメリン沸石はその後他地方でも産出している。)

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 崩落部を下から望む。くれぐれも『迂回路』通行に際しては注意を払いたい。

 崩落部を過ぎ、道はすぐ左へと曲がる。

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 緩やかに最後の上りを見せる『迂回路』。間もなく『迂回路』としての峠を迎える。

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 この近辺を踏査した5月中、至るところに咲いていたヒメシャガが目を楽しませた。

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 山の谷筋を歩んでいるように感じる場所だが、谷を形成するような沢水が集まり流れるような雰囲気は少ない。私はこの部分が、遥かな昔に巨大な切り通しとして人為的に掘り下げられた場所なのではないか、とさえ感じているが…。

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 『迂回路』は峠付近で多くの道と交差・分岐する。まず見えてくるのは進行方向から左へと向かう送電線管理道で、文殊方面へ向かう。

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 上画像は送電線管理道の文殊方面を向いた様子。興味深いのは文殊方面とは逆を向いた側だ。

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 『迂回路』の峠、進行方向右手には、先程の送電線管理道(白黒破線)のほかに「大迂回郷六ルート・葛岡ルート(黄色破線)」と「山屋敷ルート(水色)」の分岐が集中しているのである。

 地理的なことを考慮すると、葛岡方面と山屋敷方面は『迂回路』よりも高地に位置することから、当地の峠から分岐することが最も効率的に高度差のないルートを設けることが出来るだろう。また特に「四ツ谷街道」を西方から来て山屋敷方面に抜けるには『迂回路』と合わせて近道となる。人が歩いて移動することが常だった時代には重宝したルートだったと思われるのだ。

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 他方向へのルートもそれぞれ気になるが、それは後ほど。今回は本命『迂回路』を行く。峠を越した『迂回路』は緩やかに下って行く。

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 古より存在した道であろうと思いを馳せ、下り始める。(つづく)

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