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June 2014

June 14, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:山屋敷ルート探索編

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 さて、『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』記事にて「諏訪神社筒粥記」に記述のある『迂回路』として提議された黄緑実線の道と、そこから分岐する幾つもの道筋を歩いてみるという当ブログ記事も最終章。今回は水色破線「山屋敷ルート」を行く。

 「山屋敷ルート」も『迂回路』の峠より分岐しているルートで、昭和11年(1936年)『仙台市全図』にも載っている道筋である。『四ツ谷街道』の放山付近を迂回するという印象は薄いルートではあるが、『迂回路』東端の聖沢橋付近より東の箇所で『四ツ谷街道』が不通となると、やはり重要になってくるルートでもある。場合によっては『四ツ谷街道』を西から東進して来た者が山屋敷方面に用件があれば近道となるルートでもあるので、利用価値はあったのかもしれない。ただし、車社会が訪れる前の時代の話ではある。

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 『迂回路』の峠、北側の斜面は送電線直下ということで定期的に伐採される箇所であるが、その斜面中央を送電線管理路(白色破線:画像左端)が上って行くのに対し、「山屋敷ルート」は斜面下を高度を上げずに東寄りに進む。伐採の影響か道筋が不鮮明だった。

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 送電線下の伐採エリアを通過すると道筋は左にカーブし、崖の上の林を進んで行く。林の中に入れば道筋は明瞭となる。崖の下は『迂回路』と一部並走していた温泉敷地道の奥側である。

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 しばらく進むと道筋が分かれ、右へ少し下る道筋が本来の「山屋敷ルート」だと思われるが、温泉敷地内であり木造の倉庫などあるために進入すべきではない。今は廃業した温泉宿ではあるが宿の所有者がお住まいである。私の推定では「山屋敷ルート」は温泉敷地内のほぼ中心を横切れる道筋と、宿場と畑地帯?の境界付近を歩む道筋との2つが考えられ、実際の「山屋敷ルート」がどちらであったかなど定かではない。上画像の右奥に進んで行った先で、その2つの仮定ルートは分かれているのだが、確かめようは無い。進入すれば侵入と受け取られかねないので入り込まないようにしたい。

 左の道筋は温泉敷地に入り込まないように進むルートで踏み跡があり、こちらを進むことにする。

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 ほぼ直進で進むと深い掘割にぶつかる。掘割は温泉敷地内(画像右側)より立ち上がっている道で、「山屋敷ルート」中の仮定「畑境界ルート」の一部だと思われる。つまり仮定「宿場中心ルート」より既に分岐した後の部分であって、「宿場中心ルート」は一部たりとも検証することが出来ない。

 掘割に下りて右に進むと温泉敷地内であるため、左に進む。

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 しっかりした掘割の道。昭和22年(1947年)の米軍航空写真で畑のように見えた範囲の東側に沿って進んでいたと思われる「畑境界ルート」は、おそらく掘割部分を完全通過する手前で右側に道筋が逸れていたはずであるが、今となっては右側一帯の藪も濃く樹林帯と化しているので道筋は分からない。なお、掘割の先には昭和30年代まで現役だった氷池や氷室の跡があり、もしかするとこの道で街まで氷が運ばれたのかもしれない、と思うと何だか心踊る。

 本来の「山屋敷・畑境界ルート」はこの先しばらく歩けず、元畑地帯?だった西側大外回り(掘割内のまま直進する白色破線方向)を迂回して進むことになる。

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 途中、元温泉宿の所有物らしきものが置かれている場所を通過する。掘割区間は終わっている。

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 正規のルートではない。手入れされているのは元温泉宿の関係だろう。

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 掘割だった区間以降は緩やかに右にカーブして進んで行く。

 それにしても綺麗に手入れされている区間だ。ここが本来の「山屋敷ルート」であったのなら少し感動してしまうくらいだ。

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 進行方向の左側に湿地のような場所が見えてくる。その奥に氷池と氷室の跡が点在している。(氷室跡探索のときの記事はこちら

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 氷池跡一帯から流れ出る小さな沢沿いに至ったら、右に折れて進む。

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 右折した先は仙台市水道第三号隧道上の送水路管理道。ここを進む。

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 程なく、第三号隧道出口(東端)の上に至る。何やらホースが置かれていて、隧道内よ排水した作業の形跡があった。

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 右奥に第三号隧道の扉。その脇より「畑境界ルート」は出てきていたのではないか?と推察。今では畑ではなく杉林だ。

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 第三号隧道出口と向かい合う第四号隧道入口前へと進む。

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 第四号隧道の真上を上って行く送水路管理道。その途中で右側から「宿場中央ルート」が出てきていたのでは?と推察している。

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 第四号隧道前の橋から進行方向右側、聖沢の川下方向を見る。奥のほうに温泉敷地の護岸石垣が見えるが、その上辺りをルートは進んで来ていたりしたのではなかろうか…と。あくまでも米軍航空写真から見えた朧気なラインからの想像に過ぎないけれど。

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 第四号隧道の上に進んだところからの右側の様子。隧道の幅に打たれたコンクリ標の地点へ、奥から「宿場中央ルート」が…と想像。住人のいらっしゃる敷地内へと続くルートなので踏査できないのが残念だが仕方ない。

 ともあれ、ルート本筋の先を行く。

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 送水路管理道を上る。ただし、この管理道が出来たのは当然、仙台市水道が敷設された大正期のこと。それ以前の「山屋敷ルート」は、昭和11年『仙台市全図』からは勿論、昭和22年(1947年)米軍航空写真からも読み取ることは出来なく、また実際に当地周辺を探索もしたが明らかな別ルートは見受けられなかった。

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 送水路管理道を間もなく上り切る。そろそろ左方向に転進したい。

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 左側を意識するが、明らかな道筋の分岐はないまま尾根に出る。

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 送水路管理道の頂上へ辿り着く。幾つかのコンクリ標が存在する。

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 ここからの景色が子どもの頃からのお気に入り。以前はもう少し視界が開けていたが、枝葉が随分と邪魔になっていた。

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 送水路管理道の頂上からは、管理道が崖上を少し下りながら進むのに対し、「山屋敷ルート」は下らずに左へと進む。ここの道筋はそんなに明瞭ではない。

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 左を向いた状況。何となく、松の間伐材が積まれた方向に踏み跡が…?

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 間伐材のところまで来ると、踏み跡も何となくあるような、ないような。でも進んで行くべき方向が分かるというか、そんな感じだ。

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 少し上ると、僅かずつだが歩くべき場所も判断できるようになる。道筋っぽく感じられるようになるのだ。

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 尾根に窪んだ道筋。この付近の稜線を斜めに横切る頃合から明瞭になってくる。

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 ただ、時折下草の存在で道筋の視認が悪くなる。

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 斜面をほぼ上り切った頃に、ゴロンと岩が転がっている地点がある。

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 少しこんもりとしたところの上に存在する岩。何だか不思議な存在だ。ひっくり返してみたら道標みたいな石碑だったり…しないかな。

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 ほぼ平坦となったルートは、道筋が明瞭だったり下草で不明瞭になったりを繰り返して、あまり蛇行せずに進む。

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 この道筋も、最近はそんなに歩く人が居ないのだろうと感じさせる僅かな踏み跡。

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 ひたすらほぼ真っ直ぐ進み、そろそろ道筋に変化が欲しくなってきた頃…。

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 木々の間に住宅地が見え始める。仁田谷地の住宅だ。

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 住宅地が近くなると道筋も不鮮明になり、どこを歩いて良いか分かり難くなるが、割とどこでも進めるくらいに下草は少なくなる。

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 住宅地寄りに歩みを進めると…。

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 住宅地脇の道路の砂利が積まれているところから出ることができた。ただ、この砂利山のところから出るのが「山屋敷ルート」の本筋かどうかは…不明。

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 道路を山屋敷方向に進む。ここからしばらく画像は進行方向とは逆向きに撮っている。矢印が林から出てきた地点。

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 道路が砂利道とアスファルトの境界になっている付近。この付近まで来ればもう「山屋敷ルート」の本筋であろう。以前の道筋が定かではないからそんな言い方になってしまう。

 ここで、ヨチヨチ歩きの子どもを連れた若い御婦人とすれ違った。簡単な挨拶を交わしつつすれ違ったが、細かな枝葉や蜘蛛の巣にまみれたまま歩く私の姿をどう思っただろうか?(笑)

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 再び住宅地の脇を通る道。畑もある。

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 道路は進行方向左(画像では右側)に折れて行くが、「山屋敷ルート」は直進となる。その直進する先というのは…。

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 森の中へ…。

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 森の中の道は僅かな踏み跡しかなく、藪も濃い。20年ちょっと前までは比較的容易に歩いて抜けられた道だが、今ではほとんど使われていない道のようだ。ここを突っ切ると…。

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 こんなところへと抜け出てくる。

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 民家脇、庭先を掠めるようなところへ通じている。(という事情もあって、今回この藪道区間は実際は歩いていない。)

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 進行方向を見る。「山屋敷ルート」の後半は現在の住宅地を断片的につないで今も道筋が生きている。

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 道筋は少しくねりながら下って行く。

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 少し左に曲がってさらに下って行く。

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 そして、うなり坂(鰻坂とも言う)を上り切った地点、理髪店と個人商店のあるT字路の脇へと出て終了となる。うなり坂を(画像左方向に)下れば『四ツ谷街道』に辿り着ける。山屋敷踏切は画像の右奥へと進んだ方向。

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 山屋敷踏切。今では国見駅と言ったほうがピンと来る人が多いだろう。左の道は藪道区間の手前で分かれていた新道方向の出口。パトカーが一時不停止車両を取り締まっていた。(細かな枝葉や蜘蛛の巣を身体より払い落としている私の姿も見ていたようだが…。)

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 ということで「山屋敷ルート」も探索終了。概ねの想定ルートを踏破することができた。このルートは後半が今なお人々の生活道として道筋が生きているという点が良い。車社会が訪れる前の時代には、どのくらいの人々が往来に使っていた道筋なのだろうか。

 さて、これで『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』記事にあった「諏訪神社筒粥記」の『迂回路』と、その支線をいろいろ歩いてみたシリーズ記事?もお仕舞いだ。久々に地元の山を歩き回った。少しは運動不足が解消されただろうか?

 そうそう、『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』記事の、『二つの迂回路』の内のもう一つは?とお思いの方も居られるかもしれないので簡単に触れておく。

 当該記事の『もう一つの迂回路』とは、関山街道の岩淵土橋(落合橋)が流失した際に広瀬川右岸(蕃山側)から左岸(権現森側)に渡れないときに城下への抜け道として利用した『御裏林(青葉山)ルート』のことであって、やはり「諏訪神社筒粥記」に記述があるのだという。郷六付近で青葉山に入り込んでいて、その入り口付近を『沼底通』と呼んだと言い、当地付近に「溜井(用水沼)」があることに関係している呼び名では?と考察されている。

 相当、ぬかるんでいたのだろうか?

 なお、私個人の感覚で「沼底通」を想像すると、「化石の森」ではなかろうか?と思ってしまう。沼底の堆積物=化石という印象だ。化石が露頭した沢(崖)沿いを歩く道筋が沼底を連想させたのではなかろうか、というのが私なりの見解。

 さてさて。(おわり)

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June 12, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:郷六・葛岡ルート探索編②

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 『迂回路』から「郷六・葛岡ルート」を進み、途中で「郷六ルート」への分岐らしき地点もあったが「葛岡ルート」へと進み、「常監木」コンクリ標地点まで辿り着いた。「葛岡ルート」は平坦となり、放山地すべり域の外縁に沿って西寄りに進む。道筋はそんなに明瞭ではないが、歩むべき方向は見失わない程度に続いている。

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 ご覧のとおり密林でも歩いているような感じだが、それとなく行くべき方向に踏み跡が僅かに存在する。

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 この画像では踏み跡も明瞭。それでも土地勘が無い人が歩けば不安かもしれない。気を抜けば見失ってしまうかもしれない道筋だ。

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 苔に覆われたコンクリ標があった。何の目的で打たれた標なのか見当も付かない。苔で覆われたままにしてその場を通過した。

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 道筋は微かなまま続く。見失わないためにも無闇に歩かず考えながら歩く。

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 「常監木」地点からしばらく進んだところで、道筋の三叉路となった。左に行けば「郷六ルート」へ行ける第2の分岐だろう。右は方向的にも「葛岡ルート」で間違いないだろう。

 いざ、ここから「郷六ルート」へ。

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 「葛岡ルート」から分岐した「郷六ルート」への道筋は、歩むべき道筋が分かる程度の状態から始まる。上画像で見ると単なる藪を写しているかのようにしか見えない。

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 それでもしばらく進めば道筋が明瞭な区間も出てくる。

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 でも、また道筋が不鮮明になったり。それでも現地に立てば進むべき方向はそれとなく分かる。画像では分からないだろうけど…。

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 道筋は進行方向左手の古い崩落斜面に向かって行ってしまい…。

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 消えてしまった…?この古い崩落斜面のような場所を真っ直ぐに突っ切った先まで行って調べてみたが、ノイバラ地獄で刺が身体に刺さりまくり。道筋と判断できる場所には巡り会えずに戻ってくることになった。「常監木」手前でも分岐していたかのような道は崩落地沿いを進み、もしかするとこの場所で合流をしていたのかもしれない。

 とりあえず先が気になり、この古い崩落斜面部分を右側から迂回しようと小高い部分へと歩みを進めてみたところに別の道筋が少し存在したのだが、猛烈な藪に阻まれて断片的な道筋で終わっていた。おそらくその小高い部分を越えれば「さつき台」が見えてくるかもしれなかったのであるが、辿り着くことは叶わなかった。「郷六ルート」ここで退却。

 後日。

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 さつき台側から様子を見てみた。上画像はさつき台の最深部東側外縁。おそらくこの付近に「郷六ルート」は通っていたはずなのだが、造成された住宅地の外縁でもあり、綺麗に整地され松の植えられた土手が広がるだけで道筋なんて見えなかった。防犯標語看板が随分と設置されている住宅地であるから、裏手の山に通じる道が現役で生きていてもらっても困るだろう。不審者の出入する道にもなりかねない。

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 さつき台の東寄り外縁部より青葉山、太白山方向を望む。もしかすると「郷六ルート」からはこのような景色が見える場所もあったのかもしれない。

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 「郷六ルート」の西端、『四ツ谷街道』との分岐点は、昭和11年(1934年)『仙台市全図』及び昭和22年(1947年)米軍航空写真によるとこの位置となる。ここから沢沿いを少し上り、さつき台の住宅地の南西端付近から北側へと進み北東へと進路を変え、「常監木」付近までのルートへと道は延びていたのだろうと思う。

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 このような感じに。このルートだと丘陵部と川に極端に狭く挟まれた範囲の『四ツ谷街道』を迂回でき、土砂崩れや地すべり多発範囲の多くをやり過ごすことができる。『諏訪神社筒粥記』の『放山の手前から回り道をして仙台城下に入る』という記述に該当するかもしれないと前に述べた理由は、この大迂回ルートの存在があってこそだった。こうして見ると、実際に黄緑実線『迂回路』の西側手前で土砂崩れでもあれば、黄色破線「大迂回郷六ルート」を行かねばならなくなるだろう。

 さて、「葛岡ルート」に戻ろう。

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 「常監木」から西へ進んだ地点に存在した道筋の三叉路。ここを右に進んだ方向が「葛岡ルート」ということになる。

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 やや北寄りに進路を変えることとなったが、頭の中の想定ではもう少し鈍角に進路変更するものと思っていた。航空写真上に起こした道筋に誤差があったかもしれない…と考えながら進む道筋。割と道筋と認識し易い状態であり、直進する。

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 道筋は続く。ほぼ直進的に進む感じで大きな進路変更は無い。

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 いい加減、どこまで直進的に進めば良いのだろうかと思い始めた頃…。

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 山中の道でも大きな道筋にぶつかる。

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 大きな道筋の右側を眺める。少し先で大きな道筋は右に折れている。ここはきっと…。

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 大きな道筋の左側。ずっと真っ直ぐな道筋。ここは仙台市水道の送水路「第三号隧道」上の管理道のはず。近くにコンクリ標があるので確認してみる。

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 コンクリ標に「仙水」の文字。間違いなかった。休憩を兼ねて少し周辺探索をしてみると…。

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 送水路管理道が右に折れる地点に古ぼけたコンクリ標。「仙水 大正十五年」の文字が刻まれていた。直下の「第三号隧道」が竣工したのは大正6年(1917年)のはず。その9年後にコンクリ標が打たれたことになる。88年間の年月はコンクリ標の鉄筋をも剥き出しにするほど。

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 もう1本あった。こちらの劣化具合はまた少し違うようだが、同じように鉄筋は剥き出しになっていた。

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 奥から真っ直ぐ伸びてきた送水路「第三号隧道」は、大正十五年のコンクリ標の直下で向きを変えているようだ。画像奥からの直線に対してではなく、向きを変える方向(画像では左後ろ方向)に対して並行に2本が打たれていた。

 さて、ルート探索に戻る。

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 「葛岡ルート」が「送水路管理道」にぶつかった正面には道筋は続いておらず、ややクランク状に道筋が続いていた。

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 ほんの少し送水路管理道を歩いて、その道筋の入口。

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 しばらく真っ直ぐ道筋は進む。送水路「第三号隧道」と並走する仙山線の「山屋敷隧道」の上をも越えたかな、という頃合に…。

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 左へと道筋はカーブする。

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 左にカーブして以降、再び真っ直ぐな道筋。送水路や仙山線の隧道とほぼ並行に、南西に進んでいるだろうか…。

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 道筋を塞ぐ松の倒木。左側の藪を抜けて回避する。

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 松の倒木を回避した先には別の道筋が見え、右に回り込んで行く「葛岡ルート」と接合している。コンクリ標もある。

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 コンクリ標が2本ある地点から進行方向を見ると、道筋は土手を上がっている。土手の先は随分と開けており、松林。墓園に辿り着いたようだ。

 先を急ぎたくなるが、コンクリ標2本が肩寄せ合っていることが気になる。

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 境界標のようだが…1本は古い。刻んである文字も判読が難しい。位置的には…旧仙台市と旧宮城町の境界だ。葛岡墓園内でも同じような境界標を見たことがあるが、やはりそれも旧市旧町の境界付近だった。それとももっと昔の旧七北田村と旧広瀬村の境界標だろうか?

 そんな思案をしつつ、道筋の土手を上がる。

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 そこは、造成したものの使われていない墓地区画の隅。個人的に想定していたよりも少し北寄りに出てしまったようだ。

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 墓地隅から左方向には側溝が設けられている。しかし道筋はない。

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 右側には道筋が。こちらを進んでみると…。

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 芝生の綺麗な墓地に出た。

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 戻って、道筋の無かった側溝沿いを進んでみると…。

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 墓園の道路が見えてきて。

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 矢印のところから出てきた。「葛岡ルート」ここまで也。

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 結果、「葛岡ルート」は後半が想定よりも少し北寄りに進んでいた(赤破線部分)。これが葛岡墓園の造成などの経過を経て変わってしまった結果なのか、そもそも航空写真へのルート落とし込みの時に謝った結果なのかは分からないけれども、ともあれほぼ想定どおりの位置に達していた、何より踏破できたことは満足だった。なお「葛岡ルート」を横切る形で追加した灰色破線は仙台市水道第三号隧道の一部分。その直上を管理道が延びている。

 今回のルート探索では一帯の「放山地すべり」に関連する斜面の縁や崖崩れ地点、「常監木」標の存在など、地形とその歴史を感じる部分も散見された。また、大正期竣工の仙台市水道第三号隧道、昭和4年仙台・愛子間開通の仙山線山屋敷隧道(放山トンネルとも言う)の2本の隧道が併走している(高度差はあるが)箇所の上も横切り、時代といったものへ思いを馳せられる道筋でもあった。

 ただ、過去の時代への思いを馳せると同時に、未来への憂いというか心配事もある。

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 手元の古い資料から放山付近の地すべりの概況図を見つけた。広瀬川対岸の青葉山地すべりも含んでいるこの図を現地の地形で考慮すると、地すべり内帯とは主に「地すべりが生じたことに起因する地形をしている範囲」と見て取れ、地すべり外帯とは主に「地すべり地形ではないが内帯の影響(地形変動等の影響?)が出ている範囲」と考えられる。外帯範囲内に存在する「導入路」とは第三号隧道であり、×印は亀裂箇所とされているから、おそらく水道局関連の資料図と思われる。地すべりに起因すると思われる亀裂が隧道内に生じた際の資料図なのだろう。この外帯範囲には第三号隧道と仙山線までも含まれ、何をきっかけに本格的な地すべりを起こすか…などと考えてしまうと少々心配になるが…。「地すべり進行予想帯」は広域だ。そこまで進行するには数百~数千年も要するのでは、とは思うが。

 古地図に載っていた道筋という以外に、立派な地すべり地域を体感するという点でも価値のある道筋なのかもしれない。安全とは言えないけれど。

 さて、最後に残ったルートの探索に参りましょう。(つづく)

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June 10, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:郷六・葛岡ルート探索編①

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 今回は黄色破線「大迂回郷六ルート」と、途中から分岐する橙色破線「葛岡ルート」を探索する。昭和11年『仙台市全図』にも示されているルートである。

 「郷六ルート」は『四ツ谷街道』を往来する際には「広義の放山」地区のほとんどを迂回する形となり、西端は旧広瀬村境(旧仙台市と旧宮城町境)付近に発している。『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』記事にて示された黄緑実線『迂回路』と比較すると大迂回する形となり、後に紹介する「山屋敷ルート」と合わせることで地すべり崖崩れ多発地帯である街道沿いの八幡6~7丁目をほぼ完全に迂回できてしまうルートにもなる。また、途中から分岐する「葛岡ルート」は昭和11年『仙台市全図』では北西に延び、かつての仙台道(城下~荒巻~吉成~芋沢~定義街道への道)方向へアクセス可能な道筋だったようである。

 ただし、「郷六」「葛岡」いずれのルートも西側は住宅地や墓園の開発により旧来の道が失われていることは明らかで、今回はそれぞれの開発区域までの探索となる。まずは『迂回路』との分岐点より進むことにする。

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 『迂回路』の峠、道の北側斜面をやや西側に進むよう分岐するのが黄色破線「郷六・葛岡ルート」だ。東寄りに分岐するのが水色破線「山屋敷ルート」。画像左奥へと進む「郷六・葛岡ルート」は、もう見た限り歩む人が少ないのだろうということは想像に容易いが…。まずは『迂回路』から分岐を果たして進む。

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 早速ながら不鮮明な道筋となるものの、道筋を見失うほどではない。『迂回路』付近から高度を上げて行き、稜線沿いを目指す感じだ。

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 山の稜線が遠くに見えてくる。とは言っても現在のこの山の稜線は送電線下であり、架線工事の際に多少削られているようだ。

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 送電線の通る場所へと一度出る。

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 送電線下の範囲は樹木が定期的に伐採されている。その範囲の外縁をルートは掠めている。まずまず気持ちの良い開けた場所なので、この日はここで昼食休憩を取ることにしてみたり。

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 おにぎりを食べていたら空に突然の轟音。山形で行われていた東北六魂祭から松島基地へと帰還するブルーインパルスだ。仙台市街地付近へ差し掛かるタイミングでスモークON。単純に帰還せずに地域の人々へ勇姿を見せてくれるのは嬉しいし、全国で活躍するチームの姿は震災から立ち直りつつある被災地の人々の励みにもなっている。

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 この送電線付近の空の視界の良い場所では動物観察にも良さそうだ。市街地内では見慣れないような鳥も飛んでいる。

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 「ノスリ」だね。トンビではない。糞鳶っていう別名はあるけど…。

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 送電鉄塔を縄張りに盛んに鳴いていた。そう言えば2年位前にも同じ鉄塔で鳴いていた。その時は全く逆の方向(葛岡側)から観察したんだけど。

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 送電線下の伐採地には獣の足跡。

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 こちらはニホンカモシカかな。ここから直線で数百mの距離にある私の実家の玄関横にもカッポカッポと足音慣らして闊歩して来たことがあるくらいで、住宅地にも平気で出るようになってきた。

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 こちらはタヌキ?と思っていたのだが、後で調べると指が長め。もしかするとアライグマかもしれないな…厄介だ。

 そんなこんなで楽しみつつ、ルート探索を続行する。

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 送電線下の伐採地から少し距離を取るように道は進んで行く。

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 道筋にコンクリ標が。「迂回路高巻きルート」にもあった小振りなコンクリ標が左に、標準サイズのものが右に。どちらにも例の如く青いビニール紐が巻かれたまま。「高巻きルート」に存在した同様のビニール紐コンクリ標は、ここから山の斜面を下った真下一帯に存在していた。やはり地すべり関係の測量でもされていたのだろうか。

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 そんな場所を道は進む。薄っすらと道筋は見て取れる。

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 文理?

 再び現れた標準サイズのコンクリ標には明瞭な文字が。この標準サイズのコンクリ標は明らかに土地境界用のものだ。ランドスケープ園芸専門学校と関係のあるものと容易に推測できるが、随分と広い範囲の土地を取得したようだ。コンクリ標としては新しいものではないけれども、一体いつ頃に土地を取得していたのだろうか。

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 文理のコンクリ標以降、道筋が不鮮明な範囲が多少存在する。ここはおそらく「迂回路高巻きルート」序盤の崩落地の上部付近、昭和53年『広瀬川の自然』に掲載されていた放山地すべり跡写真の最右側崩落地の上端付近だ。

 何となく踏み跡が続いてやしないか?程度に探し歩み進めると、崩落範囲を抜けたのか道筋が再び鮮明になってきた。

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 道は左に向きを変えつつ進み、以後概ね真っ直ぐ、平坦になり歩き易い。

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 また文理。土地境界沿いを道は進んでいるのか、道沿いを土地境界としたのか。いずれにしても文理側の土地は放山地すべりの領域だ。

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 多少のアップダウンはあるけれども全く苦にならない程度のもの。基本的に歩き易い区間が続く。

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 またまたコンクリ標。ここを「文理道」という名にしてしまおうか。道筋は斜面との縁を進むようになる。この縁は放山地すべりの縁でもあろう。

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 地すべり域の外縁を進む道は少し安定さを欠き始めるが、歩き難いという感じは少なく、概ねの道筋ははっきりしている。

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 崩落部分の上端のような、道の分岐のような地点があった。ここなら斜面下方向に降りて行けるという感じはするが…もしかすると深緑破線「接続支線ルート」との接点箇所なのか?位置的にもそのような場所だったが、崩落地斜面を下りることにもなり危険かもしれないので探索することは回避し、「郷六・葛岡ルート」の踏査を優先した。

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 道筋は少し下って右に回り込んで行く。谷筋を迂回するのだろう。

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 コンクリ標が斜めになっている地点を通過する。このコンクリ標は文理のものではないようだ。道筋はその後、谷筋最奥を越え左へと回り込み始める。

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 左へと回り込み始めると道筋は上り傾斜が増し荒れ始める。文理のコンクリ標が散見されてはいるが、少し歩き難い。

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 古い崩落地沿いを道筋は進む。このような場所が幾つも放山地すべり域の周辺には存在しているのだろう。

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 比較的最近になって露出した崖か?そんな上を道筋は進む。斜面も少し急だなと感じる区間が続く。山道を歩き慣れない人は足元に充分な注意を払って進む必要があるだろうが、歩き慣れている人であれば歩みが停滞するようなことはないだろう。

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 かなり高度を上げてきたところで大崩落地の上となる。地盤の露出状態からここ近年に生じた崩落だと想像に容易い。崩落部は結構な高さもあり、滑落したら大怪我というだけで済まないと感じるほど。

 最初の探索時にはここで道筋を見失う。山に響く仙山線の通過する音を聞き取れば、もう少しで葛岡ルートとの分岐点へと至れそうな場所だ。ここまで来て道筋が消えてしまうとは…。

 諦め切れずに後日再踏査し、道筋を発見する。

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 放山地すべりの上端部と言える斜面や崖の縁近くを進んできた道は、大崩落地で一旦崖の縁から離れてクランク状に進んでいた。上画像は大崩落地に背を向けている方向。

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 一見すると単なる藪の斜面。よく見ると微かに踏み跡らしき痕跡が…?

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 左の視界に崖の縁を見失わない程度の位置を、微かな踏み跡が続いている。傾斜は結構あり、急いで上れば息が切れる。

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 ほどなく道筋は再び崖の縁近くを進むようになる。

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 踏み跡も踏み跡らしくなってきた。だが、この場所…。

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 黄色破線「郷六ルート」(左)と橙色破線「葛岡ルート」(右)の分岐点だろうか?崖の縁は比較的滑らかになり、その向こうにはやはり微かな踏み跡らしき道筋があるような、ないような…。

 ここからの「郷六ルート」探索は崖と藪との戦いになりそう(危険そう)なので諦め、一先ず「葛岡ルート」を進むことにする。ここから「葛岡ルート」を進んでも、もう1箇所「郷六ルート」に分岐する道筋があるはずなのだから。

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 「葛岡ルート」の斜面を上る。

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 少し名残惜しく、「郷六ルート」方向を崖上から見る。道筋っぽいのを脳内で辿ることができる。果たして行ける道なのかどうか…。

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 「葛岡ルート」の斜面区間が終わり足場は平坦になった。その地点、放山地すべり側の崖縁に倒れたコンクリ標があった。崖側に倒れており、最寄の枝に劣化した赤テープが付けられていたから気付いたようなものだ。覗き込んで見る。

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 地盤を失い土台ごと倒れたコンクリ標。刻まれた文字が…?

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 「常監木」…?「常時監視・監査する木」という意だろうか。山を登り切った感のあるこの場所、且つ放山地すべり域の外縁で最も高い場所でもあるこの場所に生えている木を、どこか遠くから監視でもして山の異変を察知しようとしていたのだろうか。当地の地すべりが如何に警戒され続けてきたかを物語る過去の遺品だろう。今は目視による監視ではなく、計器による常時自動観測という時代になった。このコンクリ標はいつ立てられたものだったのだろうか。

 思いを馳せながら一服休憩し、そして再び歩み始めた。(つづく)

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June 08, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:迂回路高巻きルート探索編

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 前回までは本命『迂回路』のことで歴史的背景とか変遷とかで説明や推測などの文章が多かったのだけれど、今回からは『迂回路』の支線や別ルートの探索記事で、少しは文字量が減りそうである。

 さて、今回は上画像の赤矢印地点からの黄緑破線「迂回路高巻きルート」の様子を記事にする。昭和11年(1936年)の『仙台市全図』には存在しない道だが、昭和22年(1947年)の米軍撮影航空写真には道筋らしきラインが見えるルートだ。

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 『迂回路』の峠の少し西側地点で分岐するこのルート、随分と清清しく森の中に佇んで始まる。傾斜地を水平に横切り、均整のある路盤は森林軌道跡っぽさすら感じるくらいである。森の奥に緩やかにカーブして消えて行く道。歩くのも気持ち良い。

 しかし。

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 あれほど綺麗な道はカーブを過ぎてすぐに古い崩落地帯を迎える。路盤らしき形跡は失われ、斜面に僅かな踏み跡を残して奥へと続いている。少し小振りのコンクリ標が路盤中央に存在している。土地の境界標なのか、地形測量の関係なのか。コンクリ標自体にもだが、最寄の木の枝に青いビニール紐が目印的に巻かれていた。紐は少し劣化していたので、数年前にでも測量されたか何かしらの作業が行われたらしい。

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 路盤崩落部の斜面を進む。崩落した分は高度を下げるが、基本的には斜面を下らずに水平に進む。周辺に比べれば下草も少なめだが、もう道というよりも踏み跡程度の状態。一部には滑落しそうなほどの足場の悪い範囲もあった。

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 崩落範囲にも、基礎部分を浮かした状態で小振りのコンクリ標が点在していた。

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 路盤崩落部を進んで行くと、道筋が左にカーブし始める。山の斜面形状に沿って進んで行く感じだ。

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 左カーブに進入すると今度は崖の崩落部の下を横切る地点となり、多量の倒木が転がっているエリアとなる。下草も随分と茂り踏み跡も見えなくなるが、○印内に青いビニール紐が巻かれた枝があり、道筋を想像することができる。おそらくここは…。

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 昭和53年(1978年)発行『広瀬川の自然』(仙台市教育委員会)にあった放山画像の最右側矢印の崩落地の下、その只中だ。

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 青いビニール紐の地点より奥に進むが、全く道筋が分からなくなり、藪も私の背丈を超えた。身動きが取り難い藪の中で、ビニール紐の目印がなぜか付けられていないコンクリ標を一つだけ見つけることが出来たが…。

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 このモミの木の下地点以降は道筋を仮定すらすることができなくなった。先程のビニール紐なしコンクリ標は、このモミの木の右側(画像の外側の藪の中)に存在した。ここ以降の地形は侵食や崩落の影響か複雑な起伏で、何より藪が濃過ぎて前進を阻まれてしまうほどだった。もう少しで地すべり防止工事作業道にアクセスできそうな気がするのだけれど…。

 敢え無く撤退…。

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 続いて、本元『迂回路』経由で工事作業道周辺を探索する。上画像の下側赤矢印地点からだ。

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 作業道を上る。真っ直ぐな坂道だが微妙な起伏の揺らぎがあり、道から周辺地形を読み取れて散歩するには面白い直線だ。

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 右側に集水井が現れる。推測では、このもう少し上の地点で「迂回路高巻きルート」は作業道と交差しているはずなのだが…。

 作業道を少し上って左側を気にして見てみると…。

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 ここがその道筋なのだろうか?緩やかな傾斜地(画像では左側が下の傾斜)の中に平坦部というか築堤のように奥へと続く地形が読み取れる。ただ、それなりに藪が発達しているために進むのは諦めた。

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 作業道の右側には、推測していた道筋は見る影も無い。この先に、先程撤退したモミの木地点があるはずだが…。

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 とりあえず作業道を上の突き当たりまで進む。

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 突き当たりを右に進むが、舗装路はすぐに藪に呑み込まれている。

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 藪に入ると作業道すら消滅しかけている。ここから道を外れた範囲を少し進んで遠くの様子を窺ってみると…。

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 先程撤退したモミの木の先端が見えた。距離にして30mも無かったのか。それであっても進入を阻む藪の勢いは凄い。このルートの踏破は諦めた。

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 折角なので、作業道の突き当たり左側にも進んでみる。やはり舗装路はすぐに藪に埋もれかけているが、こちらは踏み跡がしっかりしている。

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 奥へ進む。パッと見は山道っぽいのだが、足裏の落ち葉の下には舗装路の感触。

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 この作業道の左脇、山の斜面で言う少し下側に「迂回路高巻きルート」が存在しているはずなのだが、藪と木々でその姿を確認することはできなかった。

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 作業道の果てには平成2年に設置された放山地すべり自動観測管理センターという名の小屋があった。これ以上はどこにも進めず撤退。

 さて、この地点の一段下くらいの山の斜面の位置で「迂回路高巻きルート」は街道方向に道筋を向け…。

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 本元『迂回路』と『四ツ谷街道』との分岐点近くに、住宅地を抜けて出てきている。この「迂回路高巻きルート」の存在とは何なのだろうか?

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 黄緑破線「迂回路高巻きルート」の全容は分からなかったが、作業道を挟んで東側の多くは踏査することができた。散見される小振りなコンクリ標が気になった。

 まず、米軍撮影の航空写真に道筋が見えていたことから、昭和22年(1947年)当時には何らかの用途に使われていた道と思われる。散見されたコンクリ標は昭和53年発行の『広瀬川の自然』掲載写真の崩落地の下であっても失われず(後に設置?再設置?され)現役で使われていた。考えられるのは、本家『迂回路』の迂回路か、明治の大地すべり以降の変動の観測(測量)に用いられてきた道か、だ。土地の境界線を明確にするために道のように整地しコンクリ標を設置した、とは考え難い立地環境だ(そこまでする価値のあった土地とは思えないのだ)が…。

 私は、『迂回路』の峠近くから分岐してすぐの路盤のあまりの平坦さと、路盤中央に敷設されたコンクリ標の存在から測量用の道と考えるのだが。今となっての崩落部分はどうしようもないが、測量標を設置する当初に綺麗に整地すれば以後の測量も実施し易い。このルートが大地すべり域の中央付近を横切っている点も興味深い。でもまあ『迂回路』の迂回路だった道を測量用に転用した可能性も否定できないけれども。何より全体的に勾配も緩く、大八車など引いてでも上れそうなルートでもあるように感じたが…。さて。

 昭和53年(1978年)6月に宮城県沖地震が発生した際、当地では地すべり観測値に顕著な変動が見られたことから以後、多くの地すべり対策工事が行われることとなった。(これまでも見受けられた排水路や集水井の設置のほか、35m長20cm径の鋼鉄管を2m間隔で地盤に打ち込む抑止杭も一帯に施されている。)つまり、宮城県沖地震の以前から観測は続けられてきたということでもある。

 しっかりと整地された路盤だったような道だけど、昭和11年『仙台市全図』には載っていない道。測量の用途に使われたらしき道。もしかしたら『迂回路』の迂回路。

 ということで、あれこれと悩み続けても仕方がないので、次のルートの探索に行くことにしましょうか。(つづく)

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June 07, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:メインルート探索編②

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 峠を過ぎ、緩やかに西へと下り始める『迂回路』は分岐点に差し掛かる。メインルートは直進(画像やや左寄り)となるのだが藪が濃い。右へと分岐する道は下草も低くとても綺麗な路盤の様相を見せている。右のルートは「迂回路高巻きルート」だが、ここの探索結果は後ほど。一瞬躊躇するような藪の中、メインルートに身を投じる。

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 少し藪を掻き分けつつ直進すると、やや右にカーブした先は藪が濃いものの道筋は残っている。やはりここも少し掘り下げられた感じに道が通っており、一度道筋に入ってしまえばしばらくは迷うようなことはない。

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 少しずつ傾斜が出てくる真っ直ぐな下り坂。ここまで来ると近隣住民に限ったとしても人の往来は今では少ない感じの雰囲気だ。

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 道端の様子。石積みというより岩盤を掘り下げた部分が劣化した感じに石がゴロゴロとしている。こういった部分を見てしまうと、単なる山の抜け道という印象よりも、それなりに機能・整備していた街道の支線のようにも思えてくる。とは言え、きっと数百年も前の話。

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 斜度が出てきたなと感じた頃に『迂回路』は九十九折のように曲がりくねり始める。画像では分かり難いが、実際に歩くと進むべき道筋がしっかり残っており迷わない。しかし、曲がりくねった先に倒木があるようだ。

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 松の倒木が道を塞いでいたが、倒木下を屈んで抜けるだけのスペースはあった。ただし、倒木は上画像でも分かるとおり幹が途中から折れて引っ掛かってる状態。無理に倒木下を抜けたタイミングでドサッと落ちてきて下敷きに…ならないよう注意箇所だ。

 倒木に気を取られて斜面を下り過ぎてしまうと道の無い方向(上×方向)に歩みを進めてしまう。斜面に逆らわずに真っ直ぐ下りてしまう方向だ。最も足場の良い場所(下×方向)に進んでしまうと、道が続いているようで、すぐに行き場を失ってしまう。倒木下を過ぎたら左に回りこんで行くように歩みを進めるのが正解だが、この領域は道筋が明確に残っていないので注意が必要であった。なお、同じルートを利用して退却をする場合はこの倒木が道筋の目印になるので覚えておきたい。

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 倒木を過ぎたら斜面を下り過ぎずに左方向に回り込んで進むと、藪の中に「何となく道のように歩き易い地面」があり、あまり下らずに進む。方向としては南東方向になるだろうか。

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 斜度が出る地点から埋もれた排水路へと変わる。昔の道筋が排水路に転用されたのかどうかは定かではない。この排水路沿いをひたすら下って行く。

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 しばらく下ると右側の藪の奥に「黒い鉄柵」がチラリと見えてくる。ここで排水路から歩みを外す。排水路沿いは藪が酷過ぎてここから先は進めないのだ。

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 黒い鉄柵方向に藪を掻き分けて進むと、もう1本の排水路を越えることになる。その先には踏み跡がある。このルートを利用して退却するときは「奥側の排水路沿いを上って帰る」と覚えておくと良いだろう。

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 黒い鉄柵脇に出る。鉄柵の中は巨大なマンホール。地すべり防止対策に設けられた集水井であり、この穴に向かって何本もの集水パイプが地中に埋められている。また、歩いてきた排水路も地すべり対策のもの。表面の雨水は排水路で、地下水は集水井で排水し、地中の過剰な水を排す。地中に水が多く存在すると浮力が働き、地層の境界などで地すべりが生じ易くなるのだという。

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 集水井を過ぎると地すべり防止工事の作業道に出る。最早ここは「放山地すべり」の中なのである。

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 上画像の左が集水井で、その脇から出てきた。右が作業道下り方向。過去の『迂回路』がこのような道筋ではなかったことは確かだが、近似値と考えて割り切るしかない。

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 作業道を少し下ると右手に木製の案内板?のようなものが立っている。

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 さらに少し下ると案内板とは逆側に、排水路に架かる木材の橋というか蓋がある。白矢印が案内板の位置。画像は進行方向とは逆向きに撮影している。この木材橋(蓋?)は人の通路として利用された形跡があるが、その奥は藪が濃くて道の姿は失われている。先程、排水路沿いを下って集水井脇に抜け出てきたが、排水路沿いに進み切れば以前はこの木製橋(蓋?)地点に出て来れたのかもしれない。

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 木製橋(蓋?)の向かい付近には草に埋もれたベンチスペースがある。進行方向の右側にあり、ここから『四ツ谷街道』方向へと右に転進しても悪くない地点でもある。

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 ベンチスペースの奥を調べてみたが、道筋のようなものは見受けられなかった。その後、ベンチスペースよりも下方の作業道脇を調べてみたが、作業道の下端付近でもあり、街道方向に向かう道筋の存在する位置としては低過ぎる位置のように感じた。ちなみに作業道を下り切ってしまうと文理ランドスケープ園芸専門学校の敷地へ出てしまう形となってしまうので、作業道を下り切った先までは進まないほうが良い。

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 木製の案内板地点まで戻る。案内板に表示は無く、何かを貼付していたようだが剥がれたようだ。案内板脇には木板の橋があり、この先に進めるようになっているのだが、その先は窪地沿いにロープが張られているだけである。板の存在が微妙であり、もしかするとここが街道沿いへの転進する場所か?と歩みを進めた。

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 そして板が渡す方向、ロープを無視した向こう側に緩やかな坂道が続いているようになっていた。窪地の底に通じることになるが、歩むには苦にならない傾斜である。

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 窪地へと下り切る直前に、窪地の対岸を見てルートファインディングを試みる。身を置けそうな場所は…と、上画像のように進んでみる。倒木や藪が酷くて窪地を横切るのが少し大変であった。

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 窪地の対岸を上り、少し藪を進んだらコンクリの境界標が埋もれていた。

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 正直、道という確証がない状態の『迂回路』。もっと綿密に一帯を調査すれば、もっと道っぽい?ところがあったのかもしれないが…。

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 たまに石が整然と並んでいる?ように見える場所もあったりするのだけど、道なのかどうか…。

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 そうこうしているうちに街道に接近。国道48号線を行き交う車両の様子が見えてくる。あと僅かだが、街道沿いに出るとすればこちらなのか?と歩みを進めるとするならば…。

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 藪が割と薄く急に視界が開ける場所。抜け出るとすればこの場所らしい。

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 四ツ谷街道=国道48号線に接近すると、足元にはコンクリート製の大きな側溝の蓋。「四ツ谷用水」の蓋だ。

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 出てきた地点より左側を見る。「四ツ谷用水」が道のように延びている。

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 右側を見る。「四ツ谷用水」が延び、この先で『迂回路』と『四ツ谷街道』が合流する地点となる。

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 用水路上を西に歩く。

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 最早、この辺りで合流か?

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 「四ツ谷用水」の地上部を歩き切った地点より、振り返って撮影した『四ツ谷街道』と『迂回路』の合流点。街道を東方へ向かう人からすれば分岐点だ。

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 『四ツ谷街道』と『迂回路』、西側分岐点付近の眺め。赤矢印付近が『迂回路』の峠、そこから左手の稜線近くに黄色破線「大迂回郷六ルート・葛岡ルート」が延びている。その少し下側に、途中でも分岐点があった黄緑破線「迂回路高巻きルート」があって、それは『四ツ谷街道』と『迂回路』の分岐点のすぐ近く、画像左側より下りて来ている。

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 今回『迂回路』とされるルート(黄緑実線部分)を昭和22年(1947年)撮影米軍航空写真より道筋を想定して歩んでみたのだが、東側の基点~峠~九十九折地点(上画像でM字に見えるところ)まではほぼ昔ながらの道筋が同定できる状態にあった。九十九折地点から街道に出るまでの範囲は地すべり対策工事が行われていたりする影響もあるのだろうか、明らかな道筋として残存している感じはなく、半ば無理矢理に進んだ感は否めなかった。

 しかし、今回のルートが本当に『迂回路』なのだろうか?

 私は踏査する前から一つ疑念があった。『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』によれば『「諏訪神社筒粥記」の安永4年(1775年)12月条には、「四ツ谷海道」が崩れたため、放山の手前から回り道をして仙台城下に入るという記事がある』とある。引っ掛かったのは『放山の手前から回り道をして』という部分である。今回のルートでは「放山の只中より」回り道をすることになるのである。西方から来て東方の城下に抜ける『諏訪神社筒粥記』の記事。『放山の手前』とは何処なのか。

 「広義の放山」という考え方をすれば、現在の青葉区八幡6~7丁目付近が該当するのではないかと思われる。四ツ谷街道を西から来れば、その手前ということであるから郷六地区の東方、つまり旧広瀬村村境(旧仙台市と旧宮城町の境)辺りのような感覚となる。そうであれば、『諏訪神社筒粥記』内の『迂回路』とは『仙台市史特別編9地域誌』に示された『緑ラインの迂回路』ではなく、「大迂回郷六ルート」が真の迂回路か?と思えてきたりするのである。

 では「狭義の放山」、それでいて「多くの人が抱く放山の印象」というと、次の写真のような感じではなかろうかとも思われるのだが。

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 『広瀬川の自然』(昭和53年発行:仙台市教育委員会)に掲載された写真で「放山付近の急流」として紹介されている。流れの背後に迫る崖は狭義の「青葉山地すべり」による山崩れの崖と川の侵食による崖だが、この景色は四ツ谷街道沿いより派手に見えていたため、「青葉山地すべり=放山」という印象を抱き易いように考えている。ただ、それは上写真のような荒々しい姿がそのままだった頃の「青葉山地すべり」を知っている人の話として。

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 撮影角度は少し異なるが、上画像は平成24年(2012年)12月の「青葉山地すべり」付近。崖はすっかりコンクリの梁で固められており、荒々しい雰囲気は少なくなっている。

 この「青葉山地すべり」ビューポイントより少し西側手前に例の『迂回路』への分岐点がある。遠い昔の時代も含め多くの人々がもし「青葉山地すべり=放山」という感覚を持っているのだとすれば、『仙台市史特別編9地域誌』で提議された『迂回路』は『諏訪神社筒粥記』にて記述された『迂回路』である、ということにもなるのであろう。

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 上写真も『広瀬川の自然』より。「放山地すべり」で生じた崖部分について矢印で示されている。当地が「狭義の放山」付近だ。上写真の撮影地点より左に90度向きを変えれば「青葉山地すべり」ビューである。人々がこの辺りを「放山」と言えば、上写真のような比較的地味な光景よりも荒々しい「青葉山地すべり」方向に目が向いてしまうだろう。

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 ほぼ同じ位置から現在の放山地すべり地帯を望む。ほとんどの崖は生い茂った木々に覆われて見えない。そんなに「放山地すべり」が有名なのか?と疑問を抱いてもおかしくない穏やかな山々にも見えてしまう。

 ところが、当地は明治41年(1908年)5月15日に大規模な地すべりを起こし、四ツ谷街道を300m以上に亘って寸断させたというのである。つまり、当地の地形は『諏訪神社筒粥記』の安永4年(1775年)の頃より随分と変わってしまっているのであって、昭和11年『仙台市全図』では正確な当時の『迂回路』を特定できないことにもなってしまうのである。『~全図』に示された「緑ラインの迂回路」は、特に道程の西側一帯で「『諏訪神社筒粥記』の迂回路」とは道筋が異なってしまっている可能性がある。『緑ライン』全ての道筋が往時の『迂回路』そのものではない、ということは時系列的にも言い切れるだろう。

 また道程の東側一帯については本国寺脇(あるいは境内)を進むルートとなっていたが、本国寺は昭和10年(1935年)創建の比較的新しい寺であり、それ以前の山の様子は窺い知れない。河東碧梧桐の『三千里』明治39年10月27日~11月13日の項において三滝温泉と思わしき場所に滞在した旨の記録があり、また三滝は古くは旧仙台圏の十二支守護信仰の地であったり、明治期以前は修験道の場としてもあったようなので、本国寺脇よりも歴史的に古い三滝温泉側(一段低い側)の道に『迂回路』が元々存在したという可能性も考えられる。だが、温泉敷地道の入口(アスファルト道路から山に入るところ)左手には急峻な斜面がえぐられた様にあり、そこが古い石切り場であるという話は古くからの地域住民には当たり前のように語られてもおり、街道から石切り場までの道が現在の本国寺脇に仙台城築城の頃より存在した可能性も高いと思われる。

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 …という状況であり、「『諏訪神社筒粥記』にある真の『迂回路』」として現存すると言い切れそうな部分は、三滝温泉近くから山に入り現在の最初の難所である崩落地を過ぎたところから、峠付近、そして九十九折付近に至る範囲ではなかろうか、と思われる。山の谷間(切土部分か?)や掘割の中を道が進む区間のことである。この範囲以外は相当に様子が変わったり、当時のルートが厳密には定かではないと言えそうだ。

 さて、ここまで述べてきたことはあくまで私の推論に過ぎず、確証に至る要素も少ないのが現実。長々と述べたが、あまり意味もなく(特に地元以外の人々にとっては興味ないでしょ?笑)、独り言程度に受け取っていただきたい。

 独り言と言えば、やはりですね、上画像の赤破線部分の昔ながらっぽい雰囲気の道筋を歩いているときが一番気持ち良いですよ。

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 放山側から三滝方面への峠付近。もう少しで仙台城下が見えてくる-----。

 さて、周辺ルートに行ってみますか。(つづく)

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June 03, 2014

四ツ谷街道の放山迂回路:メインルート探索編①

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 5月も中旬になると残業量も比較的落ち着き、帰宅途中に本屋に立ち寄る余裕も出てきた。そんなある日、ちょうど店頭に並んだばかりの『仙台市史特別編9地域誌』が目に留まり、少し内容を確認して即決で買って帰った。旧域仙台市の周辺地区であり近代において合併した地区である根白石、七北田、岩切、高砂、大沢、広瀬、原町、七郷、秋保、生出、西多賀、長町、中田、六郷の各地区についてまとめられている。税抜5714円也。

 私は仙台市出身(昭和51年当時)だが、出身地は『仙台市史特別編9地域誌』でまとめている地域としては七北田(旧七北田村)の範囲であり、その中でも荒巻に位置する。東に隣接する仙台市街地は勿論、西に隣接する広瀬、大沢、生出、秋保などの地域も子どもの頃より馴れ親しんだ地域である。これらの地域については過去も現在も未来についても興味を抱き易い、謂わば郷愁を抱く地域として今の私の心に存在している。

 さて、そんな私に『仙台市史特別編9地域誌』は、あらためて地元をよく知れと言わんばかりに次のような記事を掲載していたのであった。

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 『仙台市史特別編9地域誌』P249記事『「四ツ谷街道」と二つの迂回路』より地図を引用させていただいた。当該記事によれば『「諏訪神社筒粥記」の安永4年(1775年)12月条には、「四ツ谷海道」が崩れたため、放山の手前から回り道をして仙台城下に入るという記事がある』そうで、その迂回路とは上地図の緑ラインではなかろうかと提議している。上地図は昭和11年(1936年)発行の『仙台市全図』の一部であるという。

 「諏訪神社筒粥記」の諏訪神社とは青葉区上愛子字宮下にある神社で、鎌倉時代に信州の諏訪神社から分祀したという伝承が残る。「諏訪神社筒粥記」はこの神社が所蔵する貴重な歴史資料で、安永3年(1774年)から明治18年(1885年)までの祭事の記録のほか、作況や災害などの出来事についても記録されているという。

 「四ツ谷海道(街道)」とは「関山街道」のことで、仙台領内においては「作並街道」や「最上街道」、「愛子道」などとも呼ばれ、明治期には「羽前街道」と呼ばれた現在の国道48号線である。

 放山地区は広瀬川の流域にあり、愛子盆地を東流した川が仙台平野に流れ出る手前の地域、青葉山丘陵と権現森丘陵(広義には七北田丘陵)に挟まれ川が蛇行する地域の権現森丘陵側(川の左岸・北岸側)を言い、有数の地すべり地帯となっている。川の対岸(右岸・南岸)に位置する「青葉山地すべり」とともに、頻繁に地すべりが起きて向かい合うそれぞれの山が離れて行くように見えることから「放山(はなれやま)」と言われる地域となったという。地すべりが起き易いのは、軟質の凝灰岩層(綱木層)の上に重い安山岩層(三滝層)があることに因る地質の不安定さに起因しているようである。

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 GoogleMapより同地域を見る。「Google」の文字が中央下にあるが、ちょうどその場所が「青葉山地すべり」と言われている部分で、その川の対岸一帯が所謂「放山地すべり」と言われている一帯である。30年近く前までは、現在の「文理ランドスケープ園芸専門学校(休校中の模様)」の場所には沼があり、一時期は釣堀として営業されていた。私が子どもの頃には釣堀は廃業しており、沼は私の遊び場になっていた。そんな沼へと歩いて行くのであれば「緑ライン」を抜けていたのが私であった。また、付近一帯の山々も遊び場であった。

 今回、幼少期のその懐かしい思いとは別に、『仙台市史特別編9地域誌』の記事と昭和11年『仙台市全図』に記された道筋に誘われるかのように、久し振りに現地を歩いてみることにした。幼少期の頃の記憶を辿る部分もあるが、今の現地の様子を知っておきたい気持ちもある。そして例の記事や地図に多少の疑問も残るので、私なりの検証・見解というブログ記事にもなるであろう。

 まず、昭和11年『仙台市全図』に記された道筋や地形について考える。現在の地図でもそうであるが、綿密である住宅地図や測量結果に基づく公図でもない限り、主要道以外の道筋、特に車道ではないような道は多少曖昧になっていたり簡略化されていたりすることを念頭に置く。地形についてもそうであり、細部にまで厳密さを求めることは出来ないと考える。昭和11年『仙台市全図』は、あくまでも道筋の概容であり道の起点と終点程度が重要であろうと位置付けた。

 それでは何を以てして現実味を持った道筋を定めるのか、という点で以下の画像を利用した。

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 画像にも出典を記しているが、国土地理院の『地図・空中写真閲覧サービス』より航空写真を得て、GoogleMap等も閲覧しながら、まずは机上での検証を進めることにした。上画像は平成20年(2008年)当時の放山付近である。

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 さらに拡大した上画像。この範囲に昭和11年当時の道筋を見つけるのは難しい。個人的には付近一帯を歩いたことがある経験から見当が付く部分もあるが、より検証を進めるとすれば、当時に近い過去の航空写真を見てみることになる。

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 放山付近が撮影された最も古い航空写真として国土地理院のサービス内に存在したものが上画像。昭和22年(1947年)に米軍が撮影したものだ。

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 拡大してみると、山中には多くの崩落地の様子と幾筋もの道と思しきラインが見える。当地の主要道としては国道48号線(四ツ谷街道)で、大正後期よりバスが走っていた道である。この頃には当地の山中の人道も地域住民に利用される程度になっていたであろう。

 昭和11年『仙台市全図』より11年後の撮影である上画像に、『~全図』に見える道筋と、それに関係しそうな道筋、現在の地名などを落とし込んでみた。

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 桃色が『四ツ谷街道』(国道48号線)、黄緑実線が『仙台市史特別編9地域誌』で示された『迂回路』、黄緑破線が「迂回路高巻きルート?」、深緑が「接続支線ルート?」、黄色が「大迂回郷六ルート?」、橙色が「葛岡ルート?」、水色が「山屋敷ルート?」という具合に考えてみた。落とし込んだ道筋の一部には判然としない部分もあるため地形からの想定や幼少期の歩んだ記憶なども盛り込んでいる。

 この時点で昭和11年『仙台市全図』の道筋と比べ違和感を覚えるのが黄色「大迂回郷六ルート」の位置であった。『~全図』ではもう少し山の低い位置を道筋が走っているように見えるのだが、黄色線部分以外に街道側には道筋が見られず、またこの黄色ルートは画像では左端が切れて見えないが『~全図』同様広瀬村との村境付近で街道に合流している道となっている。この違和感については『~全図』側に曖昧な部分があったのだろうと考えることとした。

 次に、この想定ルートを現在の航空写真に落とし込んでみた。

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 上画像のようになった。米軍撮影の画像時と比べて少し道筋が歪んでいるのでは?と感じられるかもしれないが、米軍写真の場合は放山地区が広範囲を写した写真の下端やや右寄りに位置しているのに対し、上画像2008年写真の場合は放山地区の直上から写してあり、写真的な歪みの差などを私なりに補正して落とし込んでみた結果に起因する差異である。

 なお、新たに加えた灰色の線であるが、上から右下に延びる細い破線は送電線管理路、中央下の逆L字状破線は地すべり防止工事の際の作業道である。

 さて、いろいろ細かいことで気になる事はあるのだが、それはそれぞれの道を踏査する記事の過程で触れるとして、まずは歩き出そう、と。

 以下、5月中に都合4回の踏査を経て記録した画像とともに(私なりの想定ルートではあるが)各ルートの現状を記事にしていきたい。画像の撮影日時は掲載順とは前後しているがご了承いただきたい。

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 最初に今回の主役でもある『迂回路』を東側(仙台城下側)より行く。上画像は山上清水地区(八幡5丁目)の丘陵地からの眺め。眼下に四ツ谷街道(国道48号線)が西走し、川の蛇行に沿うように街道が曲がりくねっている。なお、大まかな位置ながら『迂回路』を緑ラインで描いているが、今後も道筋が紛らわしい場合などは随時画像にラインを入れて説明する。

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 大崎八幡宮前より四ツ谷街道を西に1kmほど進むと八幡6丁目のバス停がある。進行方向の正面に山が迫るが、画像で言う山の稜線に立つ2本の送電鉄塔の右側の稜線が凹んで見える場所付近(赤矢印)が、『迂回路』での峠であり他のルートと多く分岐している主要地点の位置である。

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 更に街道を西進すると「聖沢橋」がある。

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 旧道にはまだ現役の旧聖沢橋があるが、この旧橋が架けられる以前は橋の手前を右側に入ったところ、現在の砂防ダム付近に橋が架橋されていたようである。その様子は『仙台市史特別編9地域誌』で示された昭和11年『仙台市全図』もお分かりいただけると思う。

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 旧聖沢橋の上流側を併走しているのは四ツ谷用水(四ツ谷堰)。「四ツ谷街道」の呼名の由来となったであろう存在だ。四ツ谷用水は仙台城下への生活用水などの供給を目的に伊達政宗が計画した用水路で、青葉区郷六付近の広瀬川から取水し、3箇所の隧道と4箇所の「掛樋(かけひ)」による沢渡りを経て仙台城下北部を本流は東流し、青葉区宮町を横切り梅田川へと合流していた。昭和初期まで生活用水にも使われたこの流れは現在工業用水として転用されているが、4箇所の「掛樋」で唯一その姿を残しているのが「聖沢掛樋」。その「掛樋」も今ではコンクリート製だが、当然昔は「木樋(もくひ)」であり、松板が利用されていたそうだ。

 子どもの頃は、このコンクリ橋の上で遊んだりもしたが、怒られもした。欄干も無いし、転落したら命も落とす。良い子は真似しないでいただきたい。

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 昭和11年『仙台市全図』にある旧々道が存在しないため、便宜上旧道からの『迂回路』分岐点が上画像。旧聖沢橋を渡ってすぐ右に行く道筋となる。

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 ここからが『迂回路』だ。四ツ谷用水の「聖沢掛樋」を説明する立て看板と、文字が薄れた縦長の看板がある。縦長看板は「旅館望洋館」のものであり、地元では所謂「三滝温泉」のことである。詳しくは分からないが平成になって廃業したようである。左上の人影?は日蓮上人立像だ。

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 『迂回路』に少し入ると左に「日蓮宗本国寺」の参道があり、右側に2本の道路が奥へと延びている。2本のうち急な上りの左側が『迂回路』で、緩い上りの右側が旧三滝温泉へと続く道だ。

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 『迂回路』は本国寺の裏手を上る。この道筋が無かった頃には本国寺境内を『迂回路』は通っていたのかもしれない。割と急坂である。

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 坂を上り切ろうかという手前で『迂回路』は住宅地内へと入ってしまう。昭和22年(1947年)の米軍航空写真時代には直進する道が無かったのである。そして正面に『迂回路』の峠付近が見えてくる。

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 坂を上り切り少し進むと進行方向右手より上り坂が合流してくるが、その途中の住宅地内より『迂回路』が戻ってくる形となる。画像奥には旧三滝温泉の建物群が垣間見れる。

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 進行方向を見ると、いよいよアスファルト道路に別れを告げる場所となる。

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 車も通れそうな右の道は旧三滝温泉の敷地へと続いており、車両進入を封じるバリケードが設置されている。現在の『迂回路』はその山側を沿うように存在している。

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 山へ分け入る『迂回路』へ踏み出す。右側の温泉敷地道よりも高い位置を進むこととなる。

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 『迂回路』には人の歩いた痕跡が色濃い。付近の山々を山菜採りやキノコ採り、散策などで歩く地域住民は割と多い。

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 少しずつ右側の温泉敷地道との高度差が出てきて、足元に注意しながら進まなければならないのだが…。

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 最初の難所、崩落地の縁を歩くこととなる。ここの崩落ゾーンは30年前には既に存在し、崩落も少し進行している。

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 崩落部分から下を見る。温泉敷地道に第2のバリケードが設けられ、それ以上の立入を禁ずる看板もある。この付近一帯は仙台城築城の際の石材を調達した石切り場でもあり、また仙台地方での年代地層地質「三滝安山岩」の模式地となっている。この崩落部は三滝安山岩の様子が見事に露出し且つ容易に接近・観察可能な場所であるため、見学者も多く訪れている場所のようである。(このためか、温泉敷地道の人の進入を封じる第2バリケードも崩落地直後に設置と配慮されているようであり、踏査時にはバリケード手前付近の木々の枝払い等管理する人の姿も見受けられた。訪れる人へのさり気ない配慮が施されていると感じる。)

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 温泉敷地道側から崩落部付近を望む。

 「三滝安山岩」は当地付近から西部の権現森付近までの限られた一帯で確認でき、安山岩溶岩、火山角礫岩、凝灰角礫岩から成る新生代新第三紀鮮新世の地層である。権現森付近での太古の火山活動によってもたらされた地質と考えられており、この層より得られた安山岩質玄武岩が「三滝石」として仙台城築城に用いられたようだ。

 なお、仙台から見える山並のランドマーク的存在である太白山も三滝安山岩から成っており、形成時代もほぼ同じと見られている。権現森と太白山は蕃山を隔てて近接しているが、これらの地域での火山活動が活発だった時代へ思いを馳せるのも面白い。

 そう言えば、当地は明治時代にグメリン沸石なる稀な鉱石が産出したことで国内唯一の産地として名を馳せたそうだ。ただ戦後にそれは菱沸石と判り鉱石産地としての名は廃れたようである。しかしながら、まだ某大学の鉱石標本にはグメリン沸石として三滝産標本が保管されているようであるので、戦後さらに再調査が行われグメリン沸石が産したのかもしれない。(グメリン沸石はその後他地方でも産出している。)

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 崩落部を下から望む。くれぐれも『迂回路』通行に際しては注意を払いたい。

 崩落部を過ぎ、道はすぐ左へと曲がる。

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 緩やかに最後の上りを見せる『迂回路』。間もなく『迂回路』としての峠を迎える。

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 この近辺を踏査した5月中、至るところに咲いていたヒメシャガが目を楽しませた。

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 山の谷筋を歩んでいるように感じる場所だが、谷を形成するような沢水が集まり流れるような雰囲気は少ない。私はこの部分が、遥かな昔に巨大な切り通しとして人為的に掘り下げられた場所なのではないか、とさえ感じているが…。

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 『迂回路』は峠付近で多くの道と交差・分岐する。まず見えてくるのは進行方向から左へと向かう送電線管理道で、文殊方面へ向かう。

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 上画像は送電線管理道の文殊方面を向いた様子。興味深いのは文殊方面とは逆を向いた側だ。

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 『迂回路』の峠、進行方向右手には、先程の送電線管理道(白黒破線)のほかに「大迂回郷六ルート・葛岡ルート(黄色破線)」と「山屋敷ルート(水色)」の分岐が集中しているのである。

 地理的なことを考慮すると、葛岡方面と山屋敷方面は『迂回路』よりも高地に位置することから、当地の峠から分岐することが最も効率的に高度差のないルートを設けることが出来るだろう。また特に「四ツ谷街道」を西方から来て山屋敷方面に抜けるには『迂回路』と合わせて近道となる。人が歩いて移動することが常だった時代には重宝したルートだったと思われるのだ。

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 他方向へのルートもそれぞれ気になるが、それは後ほど。今回は本命『迂回路』を行く。峠を越した『迂回路』は緩やかに下って行く。

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 古より存在した道であろうと思いを馳せ、下り始める。(つづく)

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