« January 2012 | Main | March 2012 »

February 2012

February 27, 2012

仙臺伝統裸参り保存会撮影記2012③

20120114_68
 前回からの続き。(更新が間延びしてスミマセン…)

 八幡杜の館を出発した仙臺伝統裸参り保存会の一行は、八幡大通りを経て大崎八幡宮の境内へと入り、参道の階段を上り始めた。黙々と歩む一行の姿には「厳か」という言葉が相応しく感じる。

20120114_69
 階段を上り切った後、混雑を極め賑やかな石畳の道も保存会の一行が通りすがると空気が一変し、周囲の人々は他団体と雰囲気を異にする一行の姿に目が釘付けとなる。

 一体。

 隊列の人数に比例しない鉦の音。それだけバラつきが少なく揃えられた音。

20120114_70
 被災酒蔵の想いとともに大切に運ばれてきた奉献酒。

20120114_71
 拝殿が近付き、男たちの気持ちも昂る。

20120114_72
 歩みを進める男たちと、常に脇を固め随行する付き人たち。間もなく祈願が果たされる。

 そう思ったのも束の間、拝殿を目前にした頃から「裸参り渋滞」が始まる。隊列はなかなか前進できない。数分待たされて、十数歩の前進を繰り返す。そして、裸参りの一行のみが入ることができる参拝順路(本殿裏)へと進んで行く。

20120114_73
 本殿の裏には目立った照明は存在せず、提灯の明かりだけが僅かに揺らぐ。(保存会所属のカメラマンという立場で付き人の法被を着用し入らせてもらっております。)

20120114_74
 暗闇の中の提灯行列と、高らかに鳴らし続けられる保存会の鉦。この頃、夜半前に一時的に生じた「急な冷え込み」を気象台では記録していた。

20120114_75
 震える。震えが止まる。そしてまた震える。

20120114_76
 本殿の裏を九十九状に三度ほど行き来する。しかし、相当の渋滞で立ち止まる時間がとてつもなく長い。参拝までの道程はもう僅かだというのに時間ばかりが重なっていく。

20120114_77
 それでも、男たちの気持ちは途切れない。鉦の音も途切れない。

20120114_78
 ほとんど外灯の光も届かないような暗闇でも、誰に見られるということが無くても、男たちは黙々と鉦を鳴らし、渋滞の列を時々僅かずつながら進んで行く。

20120114_79
 高張提灯を持つ手にも揺ぎ無く。

20120114_80
 一歩一歩参拝場所へと辿り着き、いよいよ祈願板を納め、数々の奉献物を供え、祈願をし、お神酒を頂く。

20120114_82
 付き人の人々も。

20120114_83
 祈願を終え、向かうは御神火。されど渋滞はまだまだ続く。

 あまりにも待たされ、一行の代表役である地元商店街大御所の方が隊列を離れてしまう。前代未聞の出来事に何が起こったのかと保存会の人々は思ったそうだが、今回のとんでもない渋滞劇に居ても立っても居られず運営側に渋滞解消の注文を付けに行っていたらしい。(地元大御所の方だから成し得ることである…)

 寒い。停滞。停止。あまりの渋滞。長時間裸で屋外に立たされ続ける。とうとう保存会の鉦の音も停止命令。渋滞待ちの他の裸参りの人々からも「さすがの保存会も鉦を止めてしまった…。」と口にしながら渋滞状況に苦悶の表情…。

 その後、大御所の注文が功を奏したのか渋滞が若干解消し前進するペースが少し良くなる。それでも時々は立ち止まり、何十分という時間を掛けて…。

20120114_86
 御神火に辿り着く。付き人が次々と腰の注連縄を解いて、御神火へと投げ入れられていく。

20120114_87
 参拝の際に神社より頂いた御札。

20120114_88
 御神火の近くと言えども外側半身は寒い。寒冷蕁麻疹の嵐だ。

20120114_89
 それでも男たちは淡々、黙々と御神火の周囲を回る。

20120114_90
 姿勢は崩れない。多くの団体が御神火に向けて身体を回転させて暖を取るような行為を見せるが、そんなことは保存会に断じて無い。

 さて、2週目…と思ったら1周のみで退却する保存会の隊列。通常正式には御神火の周囲を3周するのだが、この日はとんでもない渋滞だったので後方に配慮して1周のみという英断をしたそうだ。(今年は震災後初めての裸参り、土曜日の裸参りということで参拝者が多いことに加え、正式3周を行う団体が増えたこと、寒かったのでゆっくり暖を取る団体が多かったことなどが渋滞を引き起こしていたようであった。)

20120114_91
 神社の境内を後にする一行。いつもなら御神火を正式3周する伝統裸参りが後方に配慮しての1周のみ。その配慮に感嘆しつつも残念でならない。

20120114_93
 竜宝寺参道を降りて八幡大通りへ復帰する一行。

20120114_94
 帰り道も、帰り切るまでが裸参り。

20120114_95
 隊列、鉦、足取りは崩れない。

20120114_96
 地元の人々の分まで祈りと願いを運んだ足並み。

20120114_97
 いよいよ行程もフィナーレ。

20120114_98
 最後まで地元の人々に追いかけられ、撮影される保存会。

20120114_99
 杜の館に帰還。2時間弱の参拝予定が3時間半という道程となった。

20120114_999
 凍える身体で草履を脱ぐにも一苦労。

 あまりにも長い参拝となった今年は、この三十数年でワースト3に入る参拝だったと振り返る会長さんほか古参の方々。大変お疲れ様でした…。

 それでも、多くの方々が大きな充実感・達成感を得て、清清しく解散。直会(なおらい)参加メンバーに私も加えていただき、そこでもまたいろいろなお話を伺う事が出来、大変貴重な一日を過ごさせていただいた。皆々様、本当にありがとうございました。

 後日、プロカメラマンの御二方と私が撮った画像データを持ち寄って、保存会の会長さんと副会長さんの前での鑑賞会を兼ねた慰労会。そこで飛び出た?お話は…。

 それはまた次回で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 10, 2012

仙臺伝統裸参り保存会撮影記2012②

 前の記事からの続き。

20120114_35
 物的な準備や予行演習が終わると、関係者が一堂に集められ本日の重要ポジションが発表された。裸参りの隊列構成を前方から説明すると、「先導」、「高張提灯」、「一番鉦」、「役職(主人・杜氏頭)」、「二番鉦」、「梵天」、「幣束」、「祈願板」、「奉献酒」、「供物(餅)」、「供物(魚)」、「供物(野菜)」、「三番鉦」、「裸参り本体」、「高張提灯」という順となり、これに適宜周囲を付き人が囲むように配される。(上画像は左が梵天、右が祈願板。)

 この日の要職が発表されたことで、いよいよ出陣に向けた動きが一気に加速し始める。一連の神事が始まるのである。

20120114_36
 水垢離。館の脇に仮設された禊場で氷の浮かぶ冷水を全身にかける。

20120114_37
 身体を洗い清める意味もあるが、その後の体感的な寒さを緩和する作用もあるという。

20120114_38
 しかしながら周囲の気温は氷点下。瞬く間に寒冷蕁麻疹が全身を包む。それでも水垢離を行う男たちの表情は粛々としていたり、清清しささえ漂ったり。

20120114_39
 水垢離を終えると装束に着替える。仙台裸参りの装束は酒蔵で働く杜氏の服装に由来しているという。

20120114_40
 かなりしっかりと晒が巻かれていく。

20120114_41
 保存会においてこの晒が緩み落ちたことは無いということだ。

20120114_42
 鉢巻が巻かれる。

20120114_43
 鉢巻の余分は切り落とされる。余分が大きいとリボンのようになって見えたり、締りの無い感じに見えてしまう。

20120114_44
 髪まで切りそうになり、おっとっと。

20120114_45
 腰には注連縄。

20120114_46
 神事という意味が視覚的にも出てくると同時に…。

20120114_47
 気合が入ってくる。

20120114_48
 気持ちも引き締まってくる。

20120114_49
 役職(主人・杜氏頭)の服装のみ羽織袴姿で脇差等の携行が許される(もちろん現代は模造刀)。今回の主人役はピンチヒッターの方で、地元商店街の大御所。私の親父も商売柄お世話になっていたお得意様のご主人で、出発前にご挨拶させていただいた。「ああ、S君の(息子)?」と、昔と変わらず朗らかな方。

20120114_50
 さて。

20120114_51
 出発直前の館には男たちの熱気が。

20120114_52
 いざ、震災復興の祈願を果たすべく。

20120114_53
 隊列を編成する前に館脇の公園(中島丁公園)で集合写真撮影。

20120114_54
 そして出陣へ。

20120114_55
 提灯に火が灯される。

20120114_56
 午後6時過ぎ、館の前に隊列が組まれる。地域の人々が見送りに集まる。見送ることは参拝するに等しくなり、見送られた裸参りの一行が代拝する形となる。

20120114_57
 出発。震災復興への祈り、地元宮城の被災酒蔵の想い、地域住民の気持ち、そして各々の心中に去来する願いなどを運ぶ歩み。

20120114_58
 八幡の大通りに出る。

20120114_59
 仙臺伝統裸参り保存会の一行は一度立ち止まり、その前身である天賞酒造跡地(現レキシントンプラザ)に残る門構えに一礼する。

20120114_60
 そして再び大崎八幡宮へ向けて歩み始める。

20120114_61
 保存会は通りの中央寄りを歩む。地元八幡の伝統を継承する団体であるからこそ、昔ながらに中央を歩むことを許される。

20120114_62
 付き人は含み紙の状態を気遣い、交換する。また、隊列内を横切ろうとする一般参拝客などを制止する役目も担う。裸参りの隊列内を横切ることは「願いを断ち切る」行為とみなされ無礼にあたる。無礼というだけではなくて神事の邪魔をしているということにもなるので、一年のご利益を考えると厳に慎みたい行為だ。横切れるポイントは隊列の先頭と殿に高張提灯が掲げられているので、その外側ということになる。

20120114_63
 ゆっくりと堅実な足取り。そして高らかに揃って鳴らされる鉦。今年の祈り願うことはあまりにも大きい出来事であった震災からの復興。他団体とは一線を画する伝統的な裸参りは軽々しくなく厳か。保存会の皆様が今回背に乗せた数々の思いの丈と、保存会という誇り高き団体が我が地元に存在するということを思うと、その本質を貫く厳かな足取りと鉦の音に涙も滲む感慨を得た。

20120114_64
 一行が現れると、周辺を行き来する参拝客らも保存会の凛とした空気に呑まれ、立ち止まって見入る。明らかにゆっくりとした足取り。明らかに揃っている鉦の音。保存会という名前もあるが、多くの人々から「本物だ!」「素晴らしい!」「凄い!」といった賞賛の声が口をついて出る。

20120114_65
 歩道側を軽やかに追い抜いていく他団体たち。他団体の人でも思わず脇見をしてしまうほどのオーラが保存会にはある。地元住民はもちろん、古来本質的な裸参りを見てみたいという人に保存会の歩みは「必見」と言えよう。

20120114_66
 一挙一動が揃った歩み。頭上まで振り上げられて鳴らされる鉦、顔の真横に掲げられる提灯、その姿勢は他団体ではなかなか見られない凛としたもの。

20120114_67
 一行は大崎八幡宮の境内へと入って行く。人混みが一層激しくなる中で、保存会に向けられる参拝客の瞠目と感嘆の声。さながら裸参りの本陣が入ってきたかのような雰囲気に変わる。

(つづく)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 05, 2012

仙臺伝統裸参り保存会撮影記2012①

20120114_04
 1月14日の朝。仙台市青葉区にある大崎八幡宮の参道は既に正月飾りを持ち込んだ人々が行き交っていた。

20120114_05
 この日は毎年、国宝大崎八幡宮では小正月行事「松焚祭(どんと祭)」が行われ、そして「裸参り」が行われる。私は近所ということもあり、よくこの日の事や画像をブログにUPしていたのだけれども、今年は御縁があって「仙臺伝統裸参り保存会」の会長さんより御声が掛かり、ほぼ制約無しで好き勝手に撮らせていただける機会を頂戴した。地元民の私としては大変貴重で嬉しいことであった。

 さて、そんな一日の話に進んで行く前に少しだけ関連するものを簡単に説明。

 大崎八幡宮は伊達政宗が仙台開府の際に現在地に移し1604年(慶長9年)に社殿が落成。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。由緒としては公式サイトによれば『平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀しました。その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれました。大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。この際に旧領の羽前国米沢にて代々崇敬しておりました成島八幡宮と共に祀られました。』とのことである。30年ほど前の郷土資料には源義家が田尻町に勧請した旨の記載も見受けられる。(田尻町は現在大崎市となっている。)

 社殿が安土桃山時代の建造物として国宝に指定されている。現存する権現造り神社建築物では最古のもの。華麗な後期桃山建築の代表作として有名。隣接する真言宗竜宝寺は別当寺で、大崎八幡宮が現在地に移った際に建てられている。

 大崎八幡宮で行われている「松焚祭」は正月飾りを焚き上げる小正月行事で、特に宮城県内では「どんと祭」の通称で呼び親しまれている。日本各地には同じような行事に「左義長」や「ドンドン焼き」「ドンド焼き」等の呼称があり、後者の呼称はどんどん燃える様から起きた呼び名だとも言われる。宮城地方の「どんと」は大正期に北陸地方の「とんど」を倣い定着したものとも言われている。宮城地方のどんと祭は大崎八幡宮によって始められた松焚祭様式が各地に広まったものが多いとされている。

 この日に行われている「仙台裸参り」は、元々は東北南部(岩手県)地方の農家や酒蔵の神事にルーツがあると言われている。彼の地で家内安全や五穀豊穣を祈願していた祭事の様式が、農閑期に仙台へ来ていた南部杜氏によって醸造安全を祈願する仙台の酒蔵の年中行事として嘉永年間の頃には始められており、現在では酒蔵に限らず企業や団体にも広まっている。

20120114_06
 つまり…「どんと祭」と「裸参り」は同じ日に行われているが別々の行事である。同一視する人々も少なくなく、私自身も近頃までは気にすることもなく同一的な扱いを続けてきた。ではなぜ小正月の同じ日に行われているのかという部分が気になるが、裸参りは何かを祈願するというだけではなく広くは成人儀礼の一種とも扱われており、小正月(1/15・旧成人の日)に行われていたという元服の儀に関連した由来があるのではないかと推測する。仙台の裸参りの装束は酒蔵杜氏の服装に由来するが、裸であることの意味にはもっと古来からの慣わしが関係している可能性もあると思っている。

20120114_07
 と、前置きがとんでもなく長くなってしまったが…。

 この日、旧天賞酒造跡地(厳密には天賞苑という庭園部分跡地)に在る「八幡杜の館」が「仙臺伝統裸参り保存会」の拠点となる。「八幡杜の館」は、旧天賞酒造の店舗であった建物を移設し、地域のコミュニティの場や文化活動の場として活用されている建物である。天賞苑は中島丁公園として生まれ変わり、地域の人々に親しまれるようになった。

 池も凍る寒い日。例年、どんと祭のある小正月頃になるとグッと冷え込む日が多くなってくる。

20120114_08
 午前10時過ぎに杜の館を訪れると、どうやら先客が。この日奉献されるお酒を持ってきた方だろうか?

 そんな様子を遠巻きに撮りつつ、建物を眺める。一昔前まで八幡の国道沿いにあった天賞酒造の趣きを今に残す建物。地元民としては懐かしさを感じる建物・光景である。

 そして「仙臺伝統裸参り保存会」の会長さんである谷さんにご挨拶の後、館の中に入らせていただいた。その直後…。

20120114_09
 届けられた祈願板。今回の保存会は「震災復興」を祈願する。その祈願を記したこの板は神社に納めるものである。

 「仙臺伝統裸参り保存会」は、大崎八幡宮の御神酒酒屋だった天賞酒造が移転した2005年(平成17年)を契機に発足。天賞酒造が代々続けてきた伝統的な裸参りの様式を受け継ぎ、その継承と共に由来などの文化的伝承を目的として活動している。2006年に保存会としてのお参りをスタートさせ、今年で7回目となる。

20120114_10
 祈願板を立て掛ける谷さん。

 近年から裸参りの前には、裸参りの由来や意味についての説明会が開催されているとのことで、この日も谷さんは館が開館する午前10時から準備作業をしていた。

20120114_11
 八幡杜の館1F。この期間は写真の個展に使われていたが、この日ばかりは館全体が保存会の活動拠点に変わる。

20120114_12
 同2F。八幡地区を中心とした歴史資料が展示されていた。

20120114_13
 粛々と説明会の準備を進める谷さん。静けさに包まれた館の中での谷さんの一言「いいなぁ、この時間…。」という言葉、とってもよく分かります。

 この後、保存会の活動を公式に記録撮影している地元八幡のプロカメラマンの伊藤さんとご挨拶させていただく。伊藤さんは報道・スポーツ系を中心に、ベガルタ仙台オフィシャルマガジンのカメラマンもされている御方。

20120114_14
 正午を過ぎ、地元宮城の酒が届く。今回は被災した酒蔵などにお声掛けをし、震災復興祈願に賛同される酒蔵からの奉献酒を募ったのだという。杜氏の醸造祈願から始まった仙台の裸参りならではであり、酒蔵の伝統参拝様式を受け継ぐ保存会ならではでもあることだ。

20120114_15
 保存会のメンバーも集まり始め、椅子が並べられ、裸参りに関連する小物も並べられ始める。

20120114_16
 館の表には提灯が据え置かれていく。

 いろいろと準備が進み慌しくなってきた頃、保存会の裸参りを撮影にいらした仙台在住の写真家・茅原田さんとご挨拶させていただく。横浜のご出身、カナダ在住から帰国する際に仙台に住むことにして2年半の御方で、御名刺を拝見すると著名人ポートレートから経済誌や企業広報誌、インテリア誌や車専門誌、企業や団体の海外活動の記録撮影などでご活躍されている。

 すごいなー。という一言しか出てこない(笑)日曜カメラマンの私。

 プロカメラマンの御2人のとんでもない邪魔にだけはなるまいと思いつつも、夢中に撮ってたら配慮も何も無くなっちゃうだろうなということが脳裏に過ぎりつつ。

 さて。

20120114_17
 説明会が始まった。外国人の方々の参加が目立った。仙台に住む外国人の方々には日本の風習や伝統というものはどのように感じられているのだろうか。

20120114_18
 裸参りのいろいろな小物を実際に手にとって感じてもらえる。

20120114_19
 堅苦しくない谷さんのお話で和やかに。八幡宮へ正月飾りを持ち込む直前直後に立ち寄れるほど(会場が狭いので要予約だけど)気兼ねない説明会であり、それでいて地元伝統行事のことがちょっと詳しくなれる催し。

20120114_20
 説明会が終わると、保存会としてのお参りの直前準備がいよいよ本格化する。

20120114_21
 鉦。

20120114_22
 含み紙。

20120114_23
 腰に巻く注連縄。

20120114_24
 供物。

20120114_25
 館の外、公園では予行演習が行われている。

20120114_26
 三つ巴は大崎八幡宮の神紋でもある。

20120114_27
 この日は晴れたが風が強く、冷え込みが懸念された。裸ゆえに風は耐寒温度をとてつもなく下げてしまうという。

20120114_28
 館の中では準備が進む。祈願板にも注連縄。

20120114_29
 高張提灯の質感が素敵だった。

20120114_30
 準備は進む。

20120114_31
 奉献酒も揃った。

20120114_32
 物の準備が整いつつある頃、日が暮れかけて薄暗くなり始める。

20120114_33
 付き人の打ち合わせも始まる。

20120114_34
 予行演習も本日2回目。いよいよ気持ちが昂ってくる。

(つづく)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 02, 2012

青葉電気工業発電所跡探訪

 1月3日のこと。昼過ぎに仕事を終えて仙台愛宕神社へお参り。その後せっかくだからと某所へ足を運ぶ。広瀬川河畔の崖に並ぶ横穴墓をいくつか眺めつつ、本命の探訪先へと足を踏み入れる。

20120103_24
 青葉電気工業発電所(仙台愛宕下水力発電所)跡。大正9年(1920年)に建設されたもので出力470Wにて翌年開業、広瀬川大橋下流から愛宕にかけての川の蛇行範囲右岸の山(霊屋下地域)をショートカットするように隧道が掘られ、そこを流す水流により発電を行った施設の名残りである。昭和4年(1929年)頃には操業を停止していたとみられている。ここに隣接していた愛宕プールは発電所から導水していたとされ、昭和18年(1943年)まで存在した。

 最近はこの水力発電所跡について知る人も少なくなり、防空壕の跡だとか高射砲台だったんだとか、亜炭鉱山だったなどの噂?が普通に聞こえてくる。そんな水力発電所跡地、隧道の吐水側である愛宕付近を今回は探訪。

 で、跡地を訪れた第一印象としては、噂もまんざら出鱈目に出ている訳じゃないんだなぁという印象。つまり、高射砲台だったと言われればそういう気にもなるし、防空壕だったと言われれば鉄扉もあり立派で要人なんかが利用したのだろうかとさえ思えてきたりもする。

20120103_25
 自然の崖から出っ張るように築かれたコンクリートの壁に残る梯子。

20120103_26
 割と高所に開いている直角に接したアーチ開口部。その周辺にはコンクリートの構造物が自然の崖と一体を成すように作り上げられている。

20120103_27
 片方が朽ち落ちた鉄扉。広瀬川の流れの位置関係としては、右が上流側で左が下流側。川は撮影している背後を流れている。ここで水力発電所用の隧道が終わっていることになる。

 ということで…鉄扉から内部へ入る。

20120103_28
 鉄扉から真っ直ぐに見た内部。コンクリートで整えられた内壁が面を構成しているが、左の壁からは突き出た鉄骨が存在したり、右上には朽ちた鉄筋入りのコンクリ柱の名残があったりと、随分と時間を経てきている雰囲気が強い。

20120103_29
 チラリと左側を見る。高所に開いていた直角隣接アーチ開口部は左上に位置。天面は不思議な曲線のつながりで構成されている。床面は一段高くなっているようだ。

20120103_30
 一歩踏み込んで右側をチラリ見。得体の知れない四角いタンクらしきものが置かれている。そのタンクには“WHO DARES WINS”とステンシルでのスプレー文字が記されている。「挑む者のみ勝利する」とか「危険を冒すものが勝つ」などの意味で、英国や仏国などの軍部隊の標語によく使われている言葉だが…。

 画像上には朽ちた鉄筋入り柱の残骸が残る。

20120103_31
 更に踏み入って見る右側。つまり隧道の取水口方向。今居る空間が少しずつ狭まって漆黒の隧道奥地へと通じている。床の中心にある伏せられたU字溝のようなものの意味は分からない。これを挟んだ画像左右では少しの段差があり、左側が高い。

 とりあえず暗闇は怖いので、回れ~右。

20120103_32
 鉄扉を背にして左側。つまり隧道の吐水口方向。床面レベルがはっきり一段高くなっているほか、高所の直角隣接アーチ開口部からの天面処理が不思議。梁を渡したような穴が左右の壁に在る。奥には縦長のダブルアーチと、その先に僅かな空間…。

20120103_33
 鉄扉方向を振り返って見てみるとこんな感じ。秘密基地とか、アジトとか、そんな雰囲気にも思えてくる。高所の直角隣接アーチの間、少し内部側には柱があったかもしれないような天面処理の名残りと足場の様子が窺えた。

 うーん…。このロケーション萌えるかも(笑)。

 ではあらためて、鉄扉から吐水口方向へと歩いて見てみよう。

20120103_34
 鉄扉を入ってすぐ、左側の壁から突き出た鉄骨。前の画像の中央付近、直角隣接アーチの下に斜めにカットされたような壁があるが、その上端から突き出ているもの。斜めにカットされた壁は元々隧道の内壁であったのだろうと思われる。そうでなければ、送水されてきた水が鉄扉から思いっきり溢れることになってしまう。

20120103_35
 古い碍子が壁に残っていた。照明用などに導電していた名残りなのかもしれない。

20120103_36
 ダブルアーチの吐水口に近付くと、床には地下へと続く穴が…。覗き込んでみたが生活ゴミのようなものが大量に散乱していた。この中を探索したWEB記事によれば、コの字型に細い水路のような空間が続いており、いずれ閉塞地点へと辿り着く。この地下への開口部を跨ぐようにアーチの壁にはスリットが入っている。

20120103_37
 スリットの上部を見上げる。天面も深く掘られており、直感的には水門の存在を思い起こさせた。

20120103_38
 逆側のスリット上部も同様。

20120103_39
 ダブルアーチの先には多面構成のコンクリート壁で囲われた空間が存在する。この空間の真下には先程の床開口部の奥、地下空間が存在しており、迂闊には踏み入ることができない。踏み抜いて落ちる危険性が考えられた。何となく足元の固さに頼り無さを感じるのだ…。

 ここのコンクリ壁の高い位置の左右にも梁を渡したような穴が存在。画像右側の一部には梯子が一本だけ残る場所があった。この記事の冒頭2枚目の梯子は、このコンクリ壁画像左側の外側に設けられている位置関係となる。

20120103_40
 左側の内壁。上部には階段が造られており、上って行けば直角隣接アーチの上部方向へと進んでいる。

20120103_41
 右側。こちらの上部には階段は無いが、画像左側の下の位置に梯子が1本だけ残っていた。20120103_42
 ダブルアーチを外側から。シンプルだが立派な意匠を備えている。アーチの弧の部分の縁は垂直と水平面の直角合わせではなくテーパー面が設けられている。

 撮りながら、足元を踏み抜いて地下に落ちそうで冷や汗…。

20120103_43
 内部からもう一度ダブルアーチ付近を見渡す。地下への開口部、水門?スリット、下のほうが浸食されているダブルアーチ中央の支柱…。水の流路の想像ができない。地下空間の意味は?水門の前後に位置する開口部など、真意が読めないのだけれど…。

 往時の姿はどんなだったかなぁ…と思いながら、鉄扉から右側、隧道の取水口方向へと歩いてみることにした。

20120103_44
 謎のタンクの裏側付近。床には謎の丸穴と四角穴。四角穴は踏み抜いて開いてしまったものかもしれないけれど…。とにかく、こちら側にも何らかの地下空間がある。隧道を取水口方面に向かって右側の範囲、中央のU字溝を隔てた右側の範囲だ。

20120103_45
 散らばるLPレコード。施設とは無関係だが。

20120103_46
 こちらの壁にも古い碍子が残っていた。

20120103_47
 隧道が一定程度の幅まで狭まった以降に存在する、コンクリートブロックで隔てられた謎の隔壁個室群。ここから先は闇で踏み入れない。

20120103_48
 隔壁は推定10前後か。他の方のWEB記事ではホームレスが暮らしていたような痕跡もあったという。人が居ても困るし、死んでいてもらっちゃそれこそ困るし、何より闇で進めないので、本日はこれまで…。

 この先、隧道は一度閉塞隔壁を経て(隔壁の脇に隙間が作られており通り抜けは可能)、右に5本の横坑(全て広瀬川河畔へ通じる)と幾つかのコンクリート止水壁、意図不明な数本の横穴などを備えながら、水没と泥の嵐の中、高低差が1mも無いまま、1.4km弱ほど先まで続いている。取水口は竜ノ口橋の近くにある。

 この隧道そのものは現在「仙台愛宕下水力発電所導水トンネル」と呼ばれているようであるが、この「仙台愛宕下水力発電所」という名称は地元大学が用いた名称のようで、古地図には「青葉電気工業発電所」という文字で記載されているようである。このことからより正式?に近い呼称とするならば「青葉電気工業発電所導水隧道」とかになるのかもしれない。ただし、操業開始から停止までの間に管轄会社が一度変わっているため、「青葉~」ではない名称がもう一つ存在していた可能性も否定できない。地域の通称としては向山発電所というのもあったらしい。

 それにしても、隔壁個室群などは水路にあるまじき構造。考えられることは、水路としての役割を終えた昭和4年以降、何らかにこの空間が転用されているだろうということだ。隔壁個室群の奥で隧道を閉塞し水の流れを横坑に導いて広瀬川に排出することで、吐水口付近までは水が流れてこないようにしている。

20120103_49
 青葉電気工業発電所は昭和4年に県が電気事業会社から買い取っているという。その後はどうなったのか。昭和18年まで存在した愛宕プール。それまでは隧道にも水が流れていたことだろうと想像すると、その頃に転用されている可能性もある。太平洋戦争の最中、となると考えるのは軍事目的にとか?不燃性の厳重な鉄扉の存在も気になる。ただし、奥のコンクリブロック隔壁個室に使われていたブロックは戦後にJIS規格化されたもののようにも思える。この場所の雰囲気や時代背景などから軍事的にとかいろいろ考えてしまいがちだが、案外単なる倉庫として使われていただけだったりするのかもしれない。

 …誰か知ってる人は居ないのかしらねぇ…。

20120103_50
 直角隣接アーチ開口部は、推測すると隧道内を流れてきた水の最終管理場所。このアーチから人が水路へ入り、発電設備へ入っては困るような流木等のゴミを除去作業していた可能性、って考えられないかな。吐水口を出た水は川までの僅かな落差を利用して水力発電されていた、と。この空間内で発電されていたわけではなくて、ね。

20120103_51
 ここを発電所跡と言うには微妙に違うのかもしれない。発電所隧道の転用跡と言うべきで、発電所そのものは屋外の平地に建てられていたのかも、と想像しても良いだろう。隧道内の高湿度環境に電気設備を並べるのは得策じゃないし、とか。

20120103_52
 そうであったとしても、ここは貴重な昔の産業遺構と言えるだろう。最近ではもっぱら心霊スポット的に扱われることが多いようだけど。

 そんなことを考えながら、この空間を後にした。

20120103_53
 上流側の隣の崖には横穴墓群と祠がある。更に上流側まで足を運ぶと…。

20120103_54
 発電所導水隧道の横坑が口を開けている。出入口付近だけがコンクリートで補強されているのは後世のものだろう。

20120103_55
 内部は素掘りとなっている横穴。発電所導水隧道のコンクリブロック隔壁個室群の奥、隧道本体の閉塞隔壁の上流地点に続いているという。僅かに水が流れ出ており足元は最悪。スニーカーでは横穴の奥に入ることができなかった。

20120103_56
 発電所跡付近と横穴墓群の全景。

 推測や憶測を交えての探訪って面白いな、と。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« January 2012 | Main | March 2012 »