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April 2011

April 17, 2011

閖上までの道(5)

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 日和橋から、一度生協前まで戻ることにした。その途中、道路脇に転がるコーラのダルマ瓶を見つけた。おそらく20年以上どこかで眠っていたものが、津波で町が破壊されたことで出てきたのだろう。

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 ほかにもアイロンなど、ありとあらゆる生活用品が転がっていた。

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 前部が大破したマイクロバス。その左にも大破した白い車両が寄り添っている。

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 割合新しかったような住宅地。区画がしっかり整理されているが、残る建物は僅かであった。

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 ゴミ集積所。周辺は宅地であるが家屋は無い。

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 所々に残った家屋。更地となった宅地には手作りの看板で無事だという安否を知らせるものもあった。

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 おそらく自動車整備工場。

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 ミノルタカメラ。

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 ブロック塀の鉄筋は、津波の押し波で塀が破壊されたことを物語る方向でひしゃげていた。

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 捜索活動は至るところで、至るところから。

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 消防・閖上出張所。この建物の壁には安否を確認する貼紙が貼られており、写真付きのものがあったりした。地震当日の状況を具体的に子供を捜す貼紙があり、ここで私は撮ることができなかった。悲し過ぎた。

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 被災地では、見つかった写真が大切な存在となっている。ここでも、拾われた写真が道端に置かれていた。

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 大破した車両。浮かんで流されずに、何らかの理由で沈んで水中の流れと瓦礫に翻弄された車両は尽く破壊されている。

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 葬儀社の建物。この建物に逃げ込んで助かったという人の話をラジオで聴いた。鉄筋コンクリートの柱の場合は耐えた建物がほとんどだったようだが、鉄骨の柱の建物では流失しているものもある。そういう点では、この建物が残ったこと、この建物で助かったことは幸運だったのかもしれない。

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 この車両には亡くなられた方が居たのだろう。

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 車両なのかどうかも分からないくらいに大破した車両。

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 住宅地に転がる船舶エンジン。

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 生協前に一度戻り、再び海岸方向へ。日和山に辿り着く。

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 日和山の頂上には家屋の屋根が流れ着いていた。下の住宅地などと変わらない瓦礫の量であった。

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 360度見渡せど、焦土のような景色に言葉を失う。

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 山の上から周辺を眺めていると、多くの人々がやってくる。

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 若い男二人がニヤニヤ、ヘラヘラしながら眺めてた。

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 思わず一人の男をガン見してしまい、目が合った。彼は一瞬ハッとしたような表情を見せ、その後は目線を合わせなくなった。

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 笑いに来たのか?笑えない何かを心に刻んで帰りやがれ。

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 新聞の写真、テレビモニターやパソコンの画像では感じることのできないものが現地にはあった。

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 我が先祖の地、閖上。変わり果てていた。

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 この地の今後を見ていきたい。今では閖上朝市も(場所は移しているが)再開されていて、この地に住まう人々の元気には勇気付けられる。

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 今は悲しみが強くとも。

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 その分優しい、港町が再び興ってくると信じている。

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April 10, 2011

閖上までの道(4)

 名取川河口、閖上大橋を仙台側から南に渡ることができなかったために大迂回、しかし時間切れということで閖上入りを諦めた2日。その翌日午後、閖上入りを果たした。

 国道4号バイパスから東進し、東部道路が見えてくると周辺には津波による浸水の痕跡と漂着物が目立ち始め、東部道路より海側に入ると道路脇に漁船などが漂着していた。民家やコンビニに突っ込んだままの車両などを見ながら、閖上の生協前まで辿り着いた。

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 生協前から漁港方向を見る。海岸線より1km強。もうこの辺りだと流失した家屋が散見され始め、流され引っ掛かった瓦礫などが相当量存在している場所となっていた。

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 生協向かい。ボートがひっくり返っていた。

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 生協前から内陸方向を見る。まだこの風景だと、なんとなく閖上の町並みをほんの少し残しているようにも思えるが…。

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 そこから一歩、海側へ足を運べば風景は一変。僅かな家屋は残っているが、「何も無い…」という言葉が思わず出てしまう。ここから徒歩で海岸方向へ進むことにした。

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 南方向を見る。津波は左から右へと過ぎ去った。

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 フローリングと縁台を残すだけの宅地(右側が海)。正面の家屋前には何人か人が集まっていた。おそらく家主一家なのだろう。その家の背後に二階まで及ぼうかという瓦礫の山があった。

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 鉄筋コンクリートの建物は残っているが、一階はとてつもない状態。(右側が海)

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 残った家も、修繕は困難なほどに傷んでいるものがほとんど。(左側が海)

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 閖上郵便局のものと思われる点字ブロック(左側が海)。奥には水田だったと思わしき場所が広がり、水が溜まっていた。名取川河口北側でも見受けられたが、沿岸部の水田の排水は自然排水できないらしく、ポンプ排水なのだという。そのポンプ施設が復旧しないので、排水路を設けようが何をしようが、最終的には一番低い水田部分に多くの水は残るようだ。

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 郵便局の隣の葬儀社。この裏の建物に逃げ込んで助かった人も居るという話を聞く。

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 流れに一階部分が削られた家屋。右奥から津波は来ている。

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 公民館と働く婦人の家が近隣の復旧対策本部なのだろうか。関係車両が多く出入りしていた。

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 消防出張所前。

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 左方向を見ると、東禅寺という寺が見える。それよりも海側はほとんど壊滅していた。

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 その、海側を見る。たまたま、何かの偶然で流失を免れた家屋が数軒あるのみ。

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 祖父の生まれ故郷も変わり果ててしまった。遠縁に当たる盃の本姓一族の人たちも多く命を落とし、生活を奪われた。更地と化した土地のように、悲しみと虚しさが広がる…。

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 看板は本来、どこにあったものだろう。

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 更地となった瓦礫の原で、何かを探す人の姿もあった。

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 車両。ただ大破しているだけでは何も言葉が出てこない、当たり前の光景と化していた。

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 アパート(奥側が海)。なんとなくしっかり残っていそうだが…。

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 やはり津波の流れと瓦礫の流れに破壊されていた(南面)。

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 捜索ヘリは水の存在する場所の上空を低空飛行していた。写っている家屋は津波や高潮を意識したのか一階部分は駐車場か何かにしていた高床式としているが、左面を見ての通り二階と三階部分に損傷が見受けられる。津波に流された家屋がぶつかったりした痕跡なのだろう。

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 シーサイドハウスという建物だろうか。港近くでは二階付近まで津波は到達し、建物内を抜けているようだった。

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 北に延びる、変わり果てた道。いや、道は変わらず、それ以外が変わった。溜め息しか出ない。

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 日和橋の袂の貞山堀沿いの道路は寸断されていた。

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 捜索ヘリが急旋回。手前の貞山堀の岸には、何かを発見したのか捜索隊の人が立ち止まったままだった。

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 日和橋より漁港方向を見る。

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 同じく、進行方向、日和山をやや左に見る。

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 同じく、南方向を見る。海側から見て鉄筋コンクリートの集合住宅の裏手に存在した家屋は比較的残っているようだった。

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 同じく、貞山堀沿いを南に見る。

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 同じく、やや振り返り気味に西側を見る。

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 同じく日和橋より、進んできた方向を振り返る。「何も無くなった…」という以外に言葉は出ない…。ほかに出るものと言えば溜め息…。去来するものは虚しさと悲しさばかり。

(続く)

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April 07, 2011

閖上までの道(3)

 祖父の生まれ故郷、宮城県名取市閖上(ゆりあげ)までの道程は続く。

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 海岸線に近いところの住宅地。比較的家屋が残っているが、津波に対して干渉物となった構造物や地形が海側にあることや、ほんのちょっとの流れ方の違いで、残るか残らないかの分かれ目があったのだと思う。

 その分かれ目が、命に関わっていたのだと、痛感しながら歩みを進めた。

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 仙台市街が霞んで見えた。これだけの距離なのに、心の距離がとてつもなく遠いところにある人が一部には存在する。現実の距離感とその距離感。どんな距離感でも個人の内面のことなら構わないが、家や身内、近しい人を失った人の前では、その距離感を露呈するようなことにつながらないよう配慮してもらいなと思うことが目に付いたり、耳にしたり。

 無論、ここへ赴いて何かを感じてくれ、という意味ではない。むしろ、配慮のできない人がガソリン事情の回復により現地を訪れて(特に県外ナンバーの車が目立ち始めたという)、あれやこれやと物珍しく騒いで行く、見物車両渋滞が発生して避難所への物資搬送に滞りが生じるということで、被災地への通行規制(許可証制)を開始した町も出てきた。珍しいことだから、滅多に見れない光景だから、という程度のことだけを動機に行こうとしている人が近くに居るなら制止してほしい。

 被災地域にはまだ避難所から身動きがとれない人々が多い。そして半月前まで、木に引っ掛かった遺体や、水面に浮いた遺体や身体の一部が一週間以上も手におえない状態の場所だったのだから…。騒ぐようなことのためには行かないでほしい。

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 流されてきた屋根があった。

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 重いピアノも。

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 基礎と、その上の材しか残っていない家屋も多かった。

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 残った家屋も、流されてきた車両や瓦礫に埋もれていた。

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 一様になぎ倒されている電柱。ここは比較的住宅が集まって建っていたところなのだが。

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 玄関付近。家屋の建具としては、引き戸のレールだけが残っていた。

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 しっかりと残っているような家屋も、一階部分の中は完全に破壊されているような状態。

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 溜め息しか出ない光景が続く。

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 街は近いのか、遠いのか。

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 間もなく閖上大橋というところまで南下してきた。

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 地震後、広場や学校のグラウンドに避難したまま津波に、という話は仙台でも聞かれたが、それを思い出す。

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 自動車整備工場。

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 波を受けた側。

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 波は左側に抜けていった。

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 見渡す限りの瓦礫。

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 補修工事が始まって通行止めとなった閖上大橋を少し先に、西方向へと進路を向けた。

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 至るところに屋根だけが流れ着いていた。

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 北側へと延びる道。左右の水田と思わしき場所は冠水したままだった。

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 細かい残骸は水に隠されているが、車両などはこれまでの何所とも変わらず存在していた。

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 閖上大橋方向を見る。

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 捜索はまだまだ続いている。

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 厚く堆積した土砂の下にもまだまだ…と思うと、言葉が出てこない。

 ブログを時々見ていただける方で、いずれ宮城にも行ってみたいと申されていたこともある方の旦那様が消防勤務をしており、遥々東海地方から応援隊として宮城入りするというご連絡をいただいた。旦那様には、少しでもお役に立てるようしっかり頑張ってきてもらいたい、と。

 ただ、ただ、ありがとうございます。

 落ち着いて、地域に前向きな歩みが見て取れるようになったら、是非、仕事ではなくて宮城にいらっしゃってほしいと思っています。

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 閖上大橋の北側付近の冠水はしばらく残りそうな感じだった。

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 臨機に排水路を設けられないのは、おそらく既存の道路を何箇所も削る等しなければならなくなるからなのかもしれない。

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 自衛隊が調べたのは3月19日。いや、調べることができたのは3月19日、ということなんだろう。

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 全自動洗濯機の中身だけと、赤いゴルフバッグ。

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 やや内陸寄りに進むも、相変わらずの光景。

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 名取川河口の北側付近では、東部道路に近付くにつれて堆積した瓦礫の量は増していっていた。

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 東部道路と名取川の交差地点より東側を。

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 東部道路の築堤は、付近の住民などが津波から逃れることができた、小高い僅かな場所になった。

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 東部道路の下を通り、名取川左岸を遡る。東部道路を越えた先にも大量の瓦礫が流されてきていた。

 この後、国道4号バイパスまでの大迂回を試みたのだが、強い西風に押されて前進することに時間を要してしまい時間的な都合がつかなくなったために、この日は先祖代々の地である閖上へ入ることを諦める結果となってしまった。

(続く)

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April 04, 2011

閖上までの道(2)

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 宮城野区蒲生から南下を始め、しばらく進むと家屋がまとまって建っている一角があった。通り掛けに手前に位置した家屋の様子を見ると、津波の激しい流れで一階部分が半分ほど削られている家屋であった。しかし、その家屋の海側(画像奥側)に目をやると…。

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 家屋があったという痕跡を残すだけの場所があった。

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 更に海側にも。

 津波の威力の痕跡をまざまざと見せ付けられつつ、この地に暮らしていた人の気持ちを思うと胸が痛んだ。

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 同じように傾いた電柱は、津波の行く先を示している。

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 頻繁に飛んでいるヘリ。海岸線に打ち揚げられる行方不明者の捜索活動だろう、と、飛行ルートから察することができた。

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 重なって大破している車両。この場所の車両は、おそらく車両解体場から流されてきたものだろう。

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 その海側にある解体場には、解体を待つ車両が次々と運び込まれ、積まれていた。

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 先程の傾いた電柱のところまで来た。

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 近くに折り重なっている車両たち。

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 自転車で、農道を内陸方向に走り去っていく人。

 この日、私を含め自転車で走っている人が何人も居た。ほとんどの人が、時々立ち止まっては神妙な面持ちで付近を眺め、また走り去っていった。

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 再び、ヘリが海岸線上空を戻ってくる。海岸線の波間の状況変化を、比較的短い時間で観察していたのかもしれない。

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 海側(画像手前側)に向かって傾いている電柱もあった。おそらくは地盤が緩んだことにより、引き波の時かそれ以降に傾いたのだと思う。

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 しばらく南下を続け、荒浜の入口に差し掛かろうかという狐塚という地名のところにあるお社。僅かに高い盛土と少しの木々が、お社を津波から守ったようだ。周辺はとても平坦なので波や流れが暴れることなく過ぎ去ったであろうことも、お社が残ったことに一因しているのかもしれない。

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 その後、荒浜の入口付近で交通整理をする警察官に行き先を訊ねられ、閖上と言うと国道4号バイパスまで迂回せよとのこと。閖上大橋は補修工事に入ったので渡れないという話だった。進行方向を内陸側に誘導されたため、そのまま農業園芸センター方向に向かってみた。

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 農業園芸センター正面入口より。敷地の門扉は閉ざされていた。敷地内一帯にも泥が随分と堆積していた。

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 西側より覗いてみる。ここにはこれまで目にすることが無かったものが転がっていた。

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 魚の死骸…。農業園芸センターの脇にある沼から打ち揚げられた淡水魚だろう。敷地内のあちらこちらに転がっていた。

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 その沼の畔まで行ってみた。流木が相当量存在した。

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 沼の様子。この沼の上空も、ヘリが超低空で捜索活動をしているのを見掛けた。

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 東部道路より内陸側まで行き、南進する。ここも浸水し、かなりの量の瓦礫が流されてきており、付近の田畑を埋め尽くしている。

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 東部道路を越えてきた水は、通路や水路、高架下を抜けてきたもの。この通路を抜けてきた水の勢いは強かったようで、路面のアスファルトを削り取っていた。

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 通路の中に入ってみた。中央分離帯と並行するように存在する通路中央部の天面~側面の目地は7cmほど開いているようだ。東部道路も地震によりダメージを負っているのだろう。

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 通路内に流れ着いていた国語辞典。ほかには、電球やタンス、漁具などが散乱していた。

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 通路を抜けて東部道路より海側を望めば、今まで見てきた光景と同様に荒野のような状況。

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 東部道路の築堤脇には堆積した泥と瓦礫がたくさんあり、道路啓開作業によって更に高く盛られていた。(左が海側)

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 この付近は辛うじて水田の面影を残していた。この後、再び東部道路の内陸側へ戻り南進した。

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 三本塚付近。東部道路の内陸側より、内陸方面を望む。

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 こんなところにまで漁具や網が流されてきていた。

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 放置された白いトラック。東部道路の高架下を流れてきた濁流は、東部道路より内陸側でも車両を押し流したようだ(右が海側)。このほか数台の放置車両が道路脇に存在し、中には片側一車線を塞ぐように放置されているものもあった。

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 東部道路より再び海側に入り、二木の二又にて。右奥が海。

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 津波が押し流してきたものが最初に引っ掛かるような場所にある建造物には、相当な量の瓦礫が存在していた。(右が海側)

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 水田に大破した車両。車種は分からない。

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 更に沿岸に進むと、やはりそこも荒野のようになっていた。水田地帯だった面影は薄い。

 この後、渡れないと分かってはいたが閖上大橋付近まで南下していくことにした。

(続く)

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April 03, 2011

閖上までの道(1)

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 4月2日。地震後2日目となる完全休日だったため、自宅から自転車で沿岸部を走り、祖父の生まれ故郷である名取市閖上(ゆりあげ)を目指すことにした。

 私の本名を知っている人なら思うことがあるだろう。全国区として考えると珍しい姓であることに。この姓は仙台発祥で、総本家は宮城野区小田原にあった。閖上は我が姓の一族でも発展した分家の一つがあり、同じ姓の人々が多く暮らす。そこから祖父は仙台市内に移り住み、現在の私の親戚関係を構築している。(仙台小田原より以前の一族は千葉県木更津市にルーツがある。それ以前は落ち延びた平家方の某一族のようである。)

 今ではかなり遠縁の人々が暮らす閖上。祖父母のことを知っている人は居るかもしれないが、私を始め私の両親や伯父伯母を知る人は居ないかもしれない程度の遠縁関係。されど、閖上に住む同じ姓の人々が県警の死亡者リストに次々に載るのを見続けていると、現地に行き、被災状況を見、思い馳せておかなければと気が済まなくなった。

 2日は早朝に出発するつもりだったが、そんなに早くに起きることができず、結局は午前9時前に自宅を出た。仙台市街地を抜け、若林区新寺から卸町の南側を抜け、六丁目交差点より真っ直ぐ東進、宮城野区蒲生へ。その後南下して閖上大橋を渡るというルートを考えた。今の私の地元である仙台市という地域の被災状況も見ておく必要が個人的な気持ちの中にあったからだ。

 出発後、若林区内で朝食を済ませ、飲料を購入。六丁目交差点を過ぎ、東進して仙台東部道路の下をくぐった先の道に入ると…。

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 そこには冠水した跡があった。歩道や路肩に堆積した乾いた泥は、場所にもよるが厚さは3~10cm。おそらく海岸線から直線で約4kmくらいの場所なのだが、ここまで海水は迫っていた。

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 会社の敷地の泥ホコリを掃き掃除している人たちが居た。粒子は限りなく粉のような細かさのホコリ。車両が通過するたびに舞い上がる土煙。マスクを装着することにした。

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 僅か数百m進んで、歩道は流れ着いた瓦礫などで走行不能に。

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 周囲の水田だったと思わしき一帯には、厚く堆積した泥と、流木を始めとする流されてきた残骸。油分の多い泥なのか、オイルの臭いが混じったような泥臭さがあった。

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 更に少し進むと、周囲には流されてきた車両が目立つようになってくる。

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 横転している車両はまだ無く、浮いて流されてきた、という印象が強い。

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 更に少し進むと捜索隊の姿が目に入った。多くの車両が流れ着いた(引き波の時にまとまって取り残された)場所のよう。遠くでも頻繁にヘリが行き来していた。この道に入って、まだ500mくらいしか進んでいないのだが…。

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 しばらく進むと車両がまとまって残っている。(画像は進行してきた方向、内陸側に振り返って撮っている。)

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 遠くまで、車両は散見される。(左が沿岸方向)

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 海岸線から2km強くらいのところの住宅(左が海側)。外壁に何重にも残る水面の痕跡。最も高いところでは、私の胸の高さくらいまで水に浸かったようだ。家屋内検索済みの貼紙がされていた。

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 進行方向の海側を見る。左右の田畑は瓦礫が散らばる泥湿地や荒野のようになっていた。

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 蒲生に入る。タンクらしい残骸が転がっていた。(右が海側)

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 ひたすら泥が堆積した場所が広がる。泥の多さは、周辺の田畑から津波により巻き上げられた土に要因しているのか…。

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 海方向を見る。海岸線までは1km強という地点。

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 来た道を振り返る。路肩の地盤は場所によっては津波に削られている。

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 津波を受けた住宅は全壊か半壊、その姿を留めても一階は相当な損傷。(左が海側)

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 クレーン付きのトラックのようである。荷台部分は無く、原形を留めていない。

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 折り重なって大破している車両。

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 自衛隊や米軍の大規模捜索が行われているからなのか、とても頻繁にヘリが行き来していた。

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 北向きに遠くを眺める。広大な土地を巨大な津波が一様に駆け抜けたことを考えると、その場に立たないとスケール感が得られない。スケール感を得ても、現実感が得られ難い。現実感が得られ難くても、それは現実として起きたこと。

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 その現実が残した光景だけが広がっていた。

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 右から波を受けていた住宅。一階部分は波が抜けている。

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 トヨタ車であることは辛うじて分かった。

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 車椅子があった。

 浄化センター付近は工事のために通行規制のロープが張られていたので奥には行かず、その後、進路を南に移した。

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 南北に通る農道は、画像で言うと左からの津波によりアスファルトが流されている部分が相当あった。

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 転がるショベルカー。周囲の地面が水の流れで侵食されていた。

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 電柱は倒れるか傾くとき、ほぼ決まって内陸方向に向いていた。

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 ビニールハウスか何かの支柱も、津波の流れた行き先を指し示していた。

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 何かの農業倉庫。一階部分は完全に波を被っている。

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 豊かで広大な水田が広がっていた景色は、砂と泥と水と瓦礫が散らばる荒野に変わっていた。

(続く)

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