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March 29, 2011

地震後、これまでのこと。

 前回、11日の地震発生から16日に初帰宅するまでのことを諸々と報告したりしましたが、今回も地震発生前後のことを画像を交えつついろいろ報告したりしてみようかと思います。(かなり長いかも…)

●3月11日以前/地震発生前

 2月末は穏やかに暖かい日も多く、早い春の訪れになるだろうかと期待していた。

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 2月24日に、職場の近くで撮ったもの。

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 梅も早いところでは開花していた。

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 梅の花に集まるミツバチの姿を、昼休みに追っていたりした。

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 啓蟄までもう少し日があるというのに、カワゲラの仲間なども飛ぶようになり、早い春の到来を昆虫たちの姿で感じ始めていたりしたもの。

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 しかし、この画像を撮った約2週間後に地震は起きた。

●3月11日/地震発生

 地震発生時に私が何をしていたか、どんなだったかは前回記事を読んでいただくとして、職場の設備などを仮復旧したあと、職場の最上階に行って周囲を眺めてみたりした。

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 遠くで火災が起きていた。地震発生から1時間以上は経過しているというのに煙は収まるような気配は無い。

 遠くの様子を窺っていたら、頭上にジェット機の爆音が横切った。低い雲の上を横切ったようだったが、音は明らかに旅客機ではなく戦闘機。既に強震域が東北から関東まで広い範囲だったことや津波が到来していたことを知っていたので、国か防衛庁が非常事態的な対応をしているような感覚を受け始めた。

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 そして、無情なる雪が降る…。地震と津波の直後に…。地だけでなく天も人間に見方をしてくれないのか?と本気で思った。

 大災害が起きている…。職場の持ち運び発電機用のガソリン確保に動き、携行缶5缶に45Lを確保。だがその直後に「緊急車両用」としての販売制限が始まり、店も閉店。ガソリンに続いての灯油までは確保できなかった。

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 日没とともに雪は止んだ。しかし、東日本は大停電。街明かりが無くなった空には数機のヘリコプターが舞っていた。

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 深夜になって、連絡の取れない実家の様子と自宅の様子を見に行ったときに眺めた仙台の街並み。前回記事ではLPGタンクが燃えているとしたが、どうやら製油所関連施設が炎上していたらしい。

 実家と自宅の確認を終え、職場に戻って仮眠をとった。

●3月12日

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 職場の最上階から、製油所関連施設の火災の煙。

 この日もいろいろ対応に追われつつ、職場での宿直状態へ。

●3月13日

 この日は職場が停電より復旧した。私の職場の停電は実質46時間に及んだ。

 近隣の復電が進む中…。

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 夜になって、職場から近い場所での火災。復電時のショートが原因で、バチバチッと音がして出火したそうだ。静かな夜に、住人や消防隊の声が響いていた。

 以後、宿直を続ける。

●3月16日

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 この日、午後から宿直明けで、地震後初めての本格帰宅。いつもの帰り道が、学校施設の倒壊の危険があるから通行止めとされていて遠回り。そうしたら、見慣れたはずのビルの姿に精彩がない。

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 SS30のアンテナ塔?が折れて落ちていた…。黒子甘党氏の話によると、地震直後に見たときには折れ曲がっても付いていたということだが…。

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 評定河原橋から。

 この後、実家に向かってみた。

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 実家の家屋は比較的古い。ブロック塀は鉄筋入りだが端が崩落し、全体的に傾いていた。また、家の裏側の土手のコンクリート擁壁が膨らみ、家屋の外壁に密着してきていた。以前は最低の場所でも20cmは隙間があったのだが…。

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 母の墓石より仙台市街を望む。

 母の眠る墓地では、古い墓石ほど倒壊していて、それ以外にもガタついている墓石も多かった。親戚の墓石も倒れていたり、ガタついていたり…。

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 ブロック塀の倒壊現場。開口部が大きいブロック。鉄筋なんて入ってないってことは明らかで、こんな塀は地震の時は危険だ。

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 崖も割れる。近くの国道でも崖崩れにて片側交互通行になっていた。

 実家付近を後にし、自宅へ向かう。

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 我が愛車の駐車場も、ブロック塀がバッタリ。まあ、以前から歪んできたので地主には気をつけるように(後方の距離を多めに停めて)と言われていた。やっぱりか、の倒壊。

 一度帰宅し、明るいうちに割れ物の片付けと、足場と寝床になるスペースを確保。(このときの作業で極々小さなガラス片が指先に刺さったが、蚊に刺された程度だと思って放っておいたら見事に腫れた…。)

 暗くなる前に、食料を求めて近所を歩いてみた。

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 近所のアパート。外壁がバリバリッと落ちたようだ。

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 一見無事そうな家も、外壁や基礎にダメージを負っている場合が多い。この周辺は地盤が弱いってことで有名だった。我が家に致命的なダメージが無かったことは幸いだった。

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 住宅地内の個人商店に出来た買い物客の列。この頃は特に食料確保が困難だった。特に昼間働いている人は買いにすら出歩けず、食いモンがどうにもならない時期だった。ちなみにこの時買えたのは、前回記事でも報告したとおりガム数個とニンジンとはっさく。実はそれ以外に、タバコも1カートン押さえていたりした。

●3月17日

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 前回記事をUPした後に寝て、昼前に出勤。その後夕方から雪が本降り。短時間で積雪があり、除雪作業に追われる。夜は夜で冷え込んだ。2月末の暖かさが嘘のよう。津波被災地や避難所の寒さが何度も気に掛かった。

●3月18日

 宿直続きで帰らずに、いろいろ仕事。

 昼休みに出歩いたら、近所のスーパーがゲリラ開店した直後に出合わせて、並ばずに入店して自宅用の玉ねぎ、飲料とレトルト食品を数日分が確保できた。

●3月19日

 この日は宿直から明けて昼前に退勤。

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 動き出したような、まだ動かぬような、そんな街並み。霊屋橋より。

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 鹿落坂。ここは…。

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 真っ先に家屋倒壊の情報が入った場所。地元では有名な旅館の一部が倒壊し、残った建物も傾いているようだった。前の道路は通行止めが続いている。

 実家に行き、調子が悪いという電話機の再設定作業を行う。すると運良く実家の風呂が沸いていた(たまたま訪れて来たイトコ一家のために沸かしていたという)ので入らせてもらう。8日振りの風呂。実家は昔、祖母が民宿をしていた建物なので、灯油ボイラーで湯を沸かす広めの風呂。結構古い作りだが眺めも良く、とても気持ちが良かった。

 しかし、実家は裏の擁壁の膨らみの影響で「赤紙」物件となった。危険家屋であるために対策を講じなければ住めない。家自体が問題じゃない。他人の土地(しかも所有者不明…)が問題だから、土手も直されず、きっともう住めないかもしれないな…。そんな危険な?場所の建物で風呂に入った…。

 その後帰宅して、ニンジンと玉ねぎを切ったものと米を一緒に炊飯し、それにレトルトカレーを掛けて頂く。その後、疲れで片付けなど何も出来ずに寝てしまった。

●3月20日~21日

 宿直でお仕事。

●3月22日

 宿直明けで、午後から退勤。

 この日は東北道が緊急車両以外、物流トラック等が通れるようになった日。市内では宅配便トラックや物流トラック、各社の配送トラックが急激に目に付くようになった。これまでの食料事情が悪かったのは東北道の制限が一因しているな、と誰しもが思ったか、どうか。

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 葉山町付近では仙山線の復旧作業が続けられていた。

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 青葉神社の石鳥居もバッタリ。

 自宅近くの大崎八幡宮の石鳥居も倒れたか気になったので、帰宅後、食料調達を兼ねて近所を歩いてみることにした。

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 急がれる復旧工事。路面の再舗装は後回しという勢いで、今も舗装されてない。

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 大崎八幡宮の拝殿や本殿は無事の様子。落ち着いた雰囲気に気持ちも落ち着く。裏参道から表参道へと向けて歩いて行く。

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 石灯篭はほとんど倒壊。

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 石灯篭は左右セットで倒壊。石ではない鳥居は全くの無傷のようだ。

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 階段の途中の石灯篭も倒壊し、凍結滑り止め用の砂箱に真っ逆さまにダイブしていた。

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 そして、大崎八幡宮の石鳥居は地震に耐えていた!なんだかそれだけで嬉しい。手前の左右セットの石灯篭は当然のように崩壊していたけど…。

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 石鳥居をよく見ると、正面から見て左の柱の内側の、石のクサビにズレがある…。これが完全にズレて抜け落ちていたら、この石鳥居も崩壊していたかもしれないな、と。

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 広瀬川河畔に向けて歩いていく途中のサンクス1号店。コンビニはどこも基本的に閉店状態が続いていた。自社トラックでの流通に絞られるような店は、高速道路が通れないってだけで物流が止まってしまうようである。

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 気分転換も兼ね、河畔を歩く。対岸の家並みが気になる…。家の足元まで、新たな崩落が起きていたんじゃないの…?

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 河畔の崖は、至るところに崩落の痕跡。手前河畔の盛土は、県の治水事業による河畔整備のために持ち込まれたものだと思う。中州や河畔の木々が次々切られ、中州や河畔を掘り起こして、広瀬川も味気ない姿に変わっていっている。

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 でもまあ地震後に、いつものように遊んでいる子供たちの姿を見掛けるのは悪いことではない。気分が少しはラクになる。

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 この花の名は冬知らず。今、本当の被災者の心は冬だろう。でも、いつか春が来るだろうから、長く厳しい冬かもしれないが、どうか、耐えて…。

 被害の少なかった地域に住んでいる者は、サポートや関わり方を考えていかねばならないと思う。

 河畔を歩いた後、スーパーに立ち寄って缶詰5個と米5kg、カップラーメン5個、菓子少々、タバコ1カートンを確保。タバコはいつもは吸わない銘柄で、メンソールのものしか入手できなかった。

 夕食は前回同様、ニンジン&玉ねぎ炊飯のレトルトカレー掛け。(ちなみに職場に居るときは米主体のメニューで炊き出しが行われていた。)

●3月23日

 昼前の出勤時、めしの半田屋が営業再開していることを確認。東北道の物流も再開し、とりあえず食べ物に困ることは無いだろうという妙な安心感を感じる。

 この日も宿直予定だったが、同僚女性2人が私1人分と交代で泊まるからというので帰宅させてもらった。自宅の片付けが捗った。夕食は職場の炊き出しでお世話になった。

●3月24日

 朝は半田屋で食事。納豆は欠品。メニューは基本的に限られていたが、メシの量だけでも嬉しい思いをした。

 またこの日、暫定的に職場での宿直体制が解除された。床にダンボール敷いて毛布に包って眠ることが無くなっただけで身体には負担が少なくなる。でも、避難所の人々はまだまだ大変な思いをしているだろうと考えたりした。身体の負担が少なくなると、いろいろ頭も回りだす気がした。

 この日の夕食はカップラーメン。

●3月25日

 朝は再び半田屋で食事。まだ品数はかなり少ない状態だった。

 いつもの勤務時間が戻ってきたが、仕事は大きく立ち遅れていたり狂いが生じていたり暫定的に進んでいたり。電話の問い合わせも増えてきた。

 夕食は職場の炊き出しでお世話になり、少し遅めの時間に退勤。

 帰宅して、風呂に入りたくなったがガスは出ていないため沸かせない(ちなみに水道や電気は地震直後の帰れない期間のうちに復旧していた)。どうしても、そろそろ風呂に入りたい。何時間も風呂屋の前に並ぶような性格では無い(というか暇が無い)から、どうにか根性で風呂に入ることにした。

 捨てていなかった2L級のペットボトル約20本に水を入れて3列に真っ直ぐ並べる。それを、壊れて使い物にならなくなった本棚の板で横と上を囲む。その中に石油ファンヒーターの温風を注ぎ込む。ペットボトルは時々前後の並び替えをしてムラなく温めつつ、反射型石油ストーブの上を使って大鍋で湯を沸かす。ホットプレートのプレートを取り去ったものを使いヤカンを置いて湯を沸かす。

 3時間ちょっとが経過…。湯船に注いだ大鍋熱湯2杯、ヤカン熱湯20杯以上、最後にペットボトルの湯を全投入して、いつもよりちょっと少なめの湯量ながら、適温の風呂が出来上がった…。苦労の末の適温風呂は心身ともに気持ちが良かった。

●3月26日

 この日は地震後、初めて丸一日休みとなった。昼過ぎまで爆睡してしまった。夕方前から黒子甘党氏の所へ出向き、街中で確保してもらっていたタバコ1カートンを受け取る。また、嬉しいことに野菜や玉子のお裾分けまで頂いた。

 しかし、タバコの一時出荷停止が伝えられていたので確保に動く。仙台市西部を探索し、営業再開したラーメンチェーン店でまず食事。ラーメンは醤油と味噌の2種のみだったが、ギョーザがあるのは嬉しかった。お持ち帰り用冷凍ギョーザも購入した。

 頼りの綱だった?大きめの某タバコ屋も閉店中。失意のままの帰り道…。

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 これには、乗れない。

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 仙山線の踏み切りで。

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 クルマが横断するのを待っている電車、というわけではない。地震の時から止まったままなのだろう。

 その後、営業を再開しているコンビニを発見し、Uターン。入店すると若かりし頃に吸っていた銘柄は多少残っており、4箱購入し、フライドチキンと肉まんを買って食べて帰宅した。出歩いて食べ過ぎたために夕食はナシ。

●3月27日

 日曜だけど出勤。朝は半田屋でお世話になることが前提となってきた。

 仕事は宿直体制が終わっただけで、土日も交代制ながら出勤対象日となってはいる。諸々とした仕事をして、暗くなってから退勤した。

 この日の夕食は、黒子甘党氏からのお裾分け野菜&魚肉ソーセージと、自宅に残っていた野菜を使った野菜炒めをホットプレートで作って食べた。

●3月28日

 生活リズムが戻ってきて、遅れてた分の仕事を取り戻そうと、少し奮起する元気も出てきたかな。

 朝、半田屋では納豆が復活していた。麻婆豆腐も復活していた。豚汁も復活間近(調理中)だった。食材は随分と揃ってきたようだ。

 東北道が一般開放されたことによって、本当に急速な物資の動きを感じたが、ガソリン事情は良くは無い。店によっては給油量に制限無く満タン給油ができるようになった話も聞くが、まだまだ給油待ちの長い車列が道路脇に続いており、いつもなら無用?な渋滞を引き起こしている。灯油は比較的簡単に、並ばずに買える店が増えてきたようだ。

 私は地震発生前日の深夜に満タン給油&灯油2缶を購入していたので、それぞれまだ半分はある。地震発生の2日前の、前震と思わしき強めの地震があったからか気持ちに何となく引っ掛かりがあり、週末(12日や13日)を待たずに早めに給油をしていたことが幸いした。また、仕事で家に帰れないという状況も、それぞれの消費を抑えた結果につながっていたりする。

 …。

 地震後、こんな生活を送っています。だけど、辛くはないし、不便さにも大きなストレスは無いです。そんな個人的なネガティブな感情よりも津波被災地のこと、本当の被災者のことが気に掛かります。

 それと、個人的に感じることですが…。

 全国ネットのTV番組が伝えてくるメッセージには今、少し温度差を感じることがあります。復興だ、頑張れだとか解説者や著名人に言われても、津波被災地以外のライフラインが復旧作業に入っているくらいの状態です。津波で全てを失って残された人は避難所に身を寄せ、家族を失った悲しみに浸る暇なく、流された廃車同然のクルマが放置されたままだから引き取りに行きなさいとか言われています。離れ離れになった家族が生きてるのか死んでるのか分からない人も大勢居ます。同じような境遇の人たちが集まる中でも孤独を感じて過ごしている人がたくさん居ます。それも広範囲に居ます。孤立しているところもまだあります。TVから聞こえてくるメッセージに先走り過ぎているように感じるものが多いのは、阪神淡路の際などでの盛り上がりを再現すれば格好がつくとでも思った製作者側の思惑か?とまで歪んで受け止めてしまいかねないほど、温度差を感じることがあります。

 しかし、この温度差を同じ仙台市内でも感じることがあります。揺れによる被害が少なかった分、津波被害が際立っています。ほんの数Kmの生活圏の距離の違いで生活がまるで違います。街がしっかり残っているところと、水没から何とか立て直しを図ろうとしているところ、そして更地になったところ。生活が出来るような場所じゃなくなっているところが、ほんの数km先にあります。そんな現実を未だ感じ切れていない部分が、沿岸部に縁の無かった人たちに見受けられるようなことがあるのです。

 地域としても極端な分け目を持つ大災害。幸いにして衣食住の不便で済んだ人たちが、不幸にして衣食住の喪失となった人たちとの関係に、地域に、アンバランスを生じさせることが無いようにと、漠然とながら少々心配し始めた昨今でもあります。

 これから、どうなっていくのかな…。

※2011/7/28追記

 当記事に掲載している画像は7/25付で、テレビ番組制作会社(O社様)あて使用許諾しております。

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